意味の外在説

パトナムの意味の外在説が良く理解できている自信はないが、どうも、ある意味ではフレーゲやヴィドゲンシュタインより後退しているのではないかと思う*1

フレーゲやヴィドゲンシュタイン*2の議論にしたがえば、文の意味は端的に外在的である。フレーゲによれば、文の意味(意義)は命題であって、これは人間の頭の中に存在するものではない。ヴィドゲンシュタインの意味の「使用」説でも同様だ。このように考えることによって、例えば、ある専門用語を得意げに振り回す半可通に対して「君はこの言葉の意味を誤解しているよ」ということができる。もし、言葉の意味が話者の意識の中にあるとしたら、「いや、私はこの意味で使っているのであるし、自分の意識の内容について誤解するなどありえない」と反駁されたときにどうすれば良いというのだろう?

対して、パトナムの意味の外在説は、ひとまず文や語の意味を話者の精神の中に同定するところから出発する。語や文の意味というよりも、端的に信念の意味、内容と考えたほうが分かりやすいだろう。

そして、個々の信念の内容は、他の信念と独立でないがゆえに、意味の全体論へと至る。実際のところ、あまりに突飛な信念を持つ人との関係を考えれば、これは理解できる。私は、地球が自転していると考えている。ある人も、地球が自転していると考えている。しかし、その人は地球とは、一匹の亀の上に三匹の象がおり、その象が支えているお盆のようなものだと考えており、そのお盆の端は海になっていてそこから滝のように海水が流れ出していると考えているとしよう。それでも、私とその人は、地球が自転しているという同じ信念を持っているといえるだろうか?

パトナムはさらに進んで、精神の中の信念体系の全体を特定しても、それだけでは信念の意味・内容を特定するには至らないと考える。ここで有名な「双子地球の思考実験」が出てくるが、精緻化する必要がなければ、基本的アイデアはべつに難しくない。むしろ、「双子地球の思考実験」のような壮大な話を持ってくるために、その基本的なアイデア、つまり意味の指標性というものが分かりにくくなっていると思う。

二人の一卵性双生児、山田花子と山田花江がいるとする。山田花子は太郎と結婚しており、山田花江は未婚である。私は大阪で山田花子と会い、すごい美人だと感じるが、既婚者なのだと残念に思う。別のある人は名古屋で山田花江と会い、すごい美人だと感じるが、山田花子と誤解して、既婚者なのだと残念に思う。

私と名古屋で山田花江とあった人物(X)はともに、自分があった人物が山田花子であり、既婚者なのだと残念に思うわけだが、私は正しく、Xは間違っている。もし、私とXが抱いている信念が同じであったならば、どうしてそんなことが起こるだろうか? おそらく、私とXが抱いている信念は違うものだ。その信念の違いは、私があった人物は山田花子であり、Xがあった人物は山田花江であることに由来する。よって、信念の意味・内容は、私やXの精神内容によっては決定されない。私やXがあったのが誰かという外在的な要因によって決まる。

パトナムの「双子地球の思考実験」は、このいわば「一卵性双生児との交際の思考実験」を全体論化したものにすぎない。もちろん、全体論化することにいみはある。「一卵性双生児との交際の思考実験」では、何か明示的に述べられていない信念によって、私やXの信念は区別できるのではないかという疑いがありえる。例えば、山田花子は髪を赤く染めており、山田花江は髪を青く染めていて、Xはそのことを忘れていたとしよう。忘れていたとしても、その潜在的な信念は、Xにとって自分があったのが山田花子であるという信念を偽にするに足りるものである… 云々。この問題を払拭するために信念を全体論化した「双子地球の思考実験」が必要になるわけだ。

*1:べつに、それが悪いというわけではない。

*2:少なくとも、後期ヴィドゲンシュタインのステレオタイプな理解。