相対主義とか可謬主義とか

僕は、やはり、いわゆる主義としての「相対主義」をあまり支持する気にはなれない。

たしかに、事実として、いろいろと相対的なものはある。富士山はエベレストよりも低いが、大雪山よりも低くない。ここに相対性があるが、しかし、これが何か驚くべきようなことだろうか? 興味深くさえない。

何が上品か、何が下品かという判断は文化に依存し、したがって文化相対的であって、これは興味深いことではある。そして、もちろん、合理性の基準そのものが文化によって決定的に違うということであれば、それは深刻な問題かもしれない。しかし、ときに嘲笑的に指摘されるように、異なる多様な文化の存在を事実として知っているということ自体が、その異なる文化の間にある程度の意思疎通なり理解なりが可能になるだけ共通基盤があって、その相対性を僕たちが知的に理解できるということを示している。そのような、知ることができ、理解することができる相対性が、富士山が低いかどうかということが比較基準に相対的であるより、なにか形而上学的に深刻な問題であるようには思えない。

しかし、僕たちは、相対主義という形而上学的な悪夢に耐える必要はないが、別のあるものに耐えなくてはならないように思う。それは、現在のところもっとも合理的に思われたような判断であっても、あとから合理的に論駁されることはある、ということだ。ここで、僕は、時間的な相対主義というものを、少なくともそれが形而上学的に深刻な問題となるような形で、示唆したいわけではない。むしろ、いまの僕たちと未来の人たちの持っている合理性の基準が全く同じであったとしても、いま僕たちが持っていない証拠を未来の人たちは持っているということがありえるという一点だけでも、現在の最も合理的な判断が未来に覆されるということを正当化する。このような可謬主義は、形而上学的な「相対主義」とは違い、客観的な証拠というものを認める。それを認めたうえで、現在の時点において全ての証拠を持っているわけではないのだから、僕たちは限られた証拠をもとにベターな、できればその限界内でベストな判断をしなくてはならないということも認め、その帰結として僕たちの判断は可謬であることを認める:

  • 客観的な世界の実在、少なくともとも客観的な証拠というものを認める。
  • 客観的な証拠に基づいた、最も合理的な判断を志向する。
  • その上で、ある時点で最も合理的な判断だったものが、新たな証拠によって誤っていた判断だとされることを認める。

さらに、部分的な相対性を認めることもできる。

  • 相対的かつ客観的な証拠というものを認める。したがって、最も合理的な判断が、相対的であるということも認める(富士山の例)。
  • 現在の時点で入手可能な全ての客観的な証拠を集めても、二つのありえる判断のうち、いずれが最も合理的なのか決めがたいこともある。しかし、永遠にそうだと考える理由はない。