功利主義への批判について

功利主義への批判に、サバイバル・ロッタリーがある。しかし、サバイバル・ロッタリーにせよ、他の功利主義への批判となる思考実験にせよ、どれもこれも現在の僕たちからはあまりにかけ離れたメンタリティを持つ人々を想定した議論になっている。

快楽殺人者が快が被害者の苦を大幅に上回ればどうか? その殺人は善いことなのか? いや、そのような殺人者が放置されることによる社会全体の不安が、快楽殺人者の快を上回るだろう。なぜ、そういえるのか? 快楽殺人者の快が極めて大きいかもしれないではないか? あるいは、社会不安が極めて小さいかもしれないではないか?

たしかに、そのような突飛な可能性を考えれば、功利主義は僕たちの道徳的直感に反する答えを出してしまう。もし、そういうことが現実にあるのであれば、その殺人は善い(ことになってしまう)。

しかし、これは功利主義に対する、あまりにアンフェアに厳しすぎる要求ではないだろうか。およそ帰結主義的な要素を持つ規範倫理理論は、すべて僕らの常識的な想定とかけ離れた事態が発生すると、道徳的直感に反する答えを出すのではないか。

ある国でいま人種差別を撤廃すると100年後に、現在よりも極めて厳しい『家畜人ヤプー』的世界が出現し数千年間それが維持される。人種差別撤廃を100年遅らせれば、それは回避できる。こういう突飛な想定をおいた場合に、平等を勘案する(帰結主義的な)規範倫理理論は、なにかクリアな回答を出せるのだろうか? なぜ、これが突飛に思えるかといえば、差別撤廃のような「善い」制度は、基本的に単調増加するだろうと想定しているからだ。

それよりも、快楽殺人者が快が、そのような殺人者が放置されることによる社会全体の不安を上回ることは考えにくいという想定が、そんなに奇妙だろうか。