反証主義

ポパー反証主義は、検証の全体性、観察の理論負荷性によって否定されるといわれる。これに対して、ポパーは観察の理論負荷性の認めていると再反論される。

さて、ポパーはたしかに観察の理論負荷性を認めているが、その解決をどこで実験条件や背景理論への疑いをやめるかは決断にかかっているとしているので、そのいわば決断主義を批判することはできると思う。しかし、ポパー反証主義が現在受け入れがたいのは、観察の理論負荷性にあるというよりも、観察の理論負荷性と深く関わるけどもそれといちおう区別できる別の点にあるのだと思う。

クーンが真っ先に強調していることは、現場の科学者はアドホックな説明をする、ということだ。アドホックな修正を許容すると、その瞬間に反証主義が成り立たなくなる。これは、ポパーも認めていたことだと思う。そうすると、問題は、現場の自然科学者たちがやっている理論の修正は、(1)アドホックでないするか、(2)彼らはポパーが糾弾する精神分析学者やマルクス主義者と同様に似非科学者なのであるとするか、(3)反証主義を取り下げるかの三択となるだろうが、ポパーはおそらく(1)と考えており、クーンの答えは(3)であるわけだ。

また、ポパー精神分析マルクス主義への批判に現れていると思うが、ポパーは競合理論がない場合でも、理論を棄却する。つまり、ある理論が科学的かどうかは必ずしも他との比較の程度問題ではなく、ある点ではその理論内在的に決まると考えており、「無知の知」を得たことで良しとするわけだ。これもまた疑問の余地のある考え方だ。

両者合わせて、それなりにうまく行っている科学理論については、一度や二度の反証実験や、いくつかの例外的な事例についてはアドホックな説明を受け入れ、せめて競合理論が登場するまでは、いわば人工呼吸器つきで生きながらえさせるべきではないのか、という疑問がわく。「ダークマター」は、考えてみれば、かなりアドホックな説明であると思う。しかし、これがアドホックであるからといって、ニュートン物理学の全体を(それを近似的には正しいとする相対性理論量子論も含めて)棄却してしまうべきだろうか? 逆に、「ダークマター」がアドホックでない仮説であるならば、いったいどういう仮説がアドホックであるという非難を受けるのだろう。