[哲学っぽいメモ] 合理性の二つの相:思考の内的明晰さと推論の外的規範性

デカルトたち合理主義者にとって、思考の評価基準は、明晰さと自明性であった。これは、思考の内在的な性質であって、その思考をしている本人には直接分かるし、本人以外には、少なくとも本人のようには直接知ることができない。心の中の像が、まるで焦点のあっていない写真のようにボケているか、焦点のあった写真のようにクリアかというアナロジーによって理解することができる。そして、この思考の明晰さや自明性は、言語表現に反映されると考える。ブラウワーはこの陣営に属しているように思う。

対して、フレーゲヴィトゲンシュタインの伝統に連なる英米哲学の伝統は、推論に対する外在的な規範性*1を重視する。いくら本人にとって明晰な思考であろうと、その推論が間違っている、本人が気づかずとも間違っているということがありうる。この推論の外在的な規範性というアイデアが、デカルト的な合理主義に反対する、たんに経験を重視するということに留まらない根拠だ。この推論の規範性は、外的に表出された言語表現をまずもって規制し、(もしそれと区別された思考というものがあるならば)その規制を通してさらに思考を規制する。このアイデアを端的に表現するものが、チューリング・テストだ。

さて、僕たちはどちらの陣営に与するべきだろうか? たぶん、どちらの陣営に与するという問題ではなくて、なにか中庸の道をとるべきだと思う。

*1:過剰形容だと思うが、気にしない。