理性と啓示

ギリシア教父の時代以来、キリスト教神学には理性による知識啓示による知識の二項対立がある。ユダヤ教が、キリスト教、そしてイスラム教や(一部の?)教派神道と同じく「啓示宗教」と呼ばれるように、啓示による知識というアイデアは、キリスト教独自のものではない。しかし、キリスト教神学が、教父時代に理性による知識と啓示による知識という二項対立に頭を悩まし、またルネサンス時代にクローズアップされたのには理由がある。

ローマの教養・文化においては、古代ギリシアの哲学者、プラトンアリストテレスが尊敬され、最高度の知性だと考えられていた。プラトンアリストテレスキリスト教徒ではないので、非キリスト教徒は地獄に行くとするならば、彼らは地獄に行かなければならない。しかし、プラトンアリストテレスが地獄に行かなければならないのならば、彼らはそれを望んだのだろうか? 望んだのでなければ、彼らはなぜ自分たちが地獄に行くことを知らなかったのだろうか、最高度の知性を持っていたのに?

こうして、理性による知識と啓示による知識の二項対立は、キリスト教神学の中に深く根付くことになった。そして、理性による知識と、何かしら啓示のようなものによる知識の区分は、現代の欧米の世俗の哲学者にも影響を与えているように思う。ハイデガーは何かしら啓示のようなものによる知識を熱烈に擁護している。理性による知識の限界を指摘しているように思えるダメットは、他方でカトリックの熱心な信徒らしい。

理性による知識と啓示による知識の二項対立を背景とすると、従来のキリスト教的な世界観では啓示による知識の分野だとされていたものが、

  • それは、そもそも擬似問題、あるいは回答不能な問題だと考えるか
  • 理性による知識によって解明されると考えるか
  • やはり、なにか啓示のようなものによる知識によってとらえられると考えるか

という三択になる。この三択に、焦燥感、切望感といったものがあるのではないかと思うが、非キリスト教文化で育った私には分からない。聖餐における実体変化とはいかなる意味かという問題にそもそも関心がないように、歴史の終焉という問題にも関心がない。