[哲学っぽいメモ] 論理とは何か? と、論理のほかに必要なもの

論理とは何か? という前に、「それは非論理的だ!」という非難について考えてみよう。


何らかの主張に対して、それが非論理的だという非難は頻繁に行われるが*1、非論理的だという非難の正当だと思える使い方には二つある。一つは、ある主張が矛盾を起こしているとき、その矛盾を指摘して、それは非論理的だと非難することは正当だろう。もう一つが、ある主張が論理的に妥当な推論を行っていない場合、それは非論理的だと非難することは正しくはある。

後者、つまり、ある主張が論理的に妥当な推論を行っていないことを非論理的と非難する場合、これは前述のとおり正しくはあるが、極めて限定された場合以外は、あまり役に立つ非難ではない。というのは、全面的に論理的に妥当な推論など論理学の演習問題以外では求められていないだろうし、論理学の演習問題以外ではほとんど役に立たないだろうからだ。

もちろん、どのような分野であっても、部分的に論理的であるのは好ましい。ド・モルガンの法則や、二重否定則や対偶、背理法といった、よく知られた論理法則を使うことは、推論と論証を簡潔にする。しかし、全面的に論理的に妥当な推論のみによって主張できる命題が役に立ちそうな分野はほとんどないだろう。

このような、ある主張が論理的に妥当な推論を行っていないことを非論理的と非難された場合、大抵の場合は、「たしかにそうだが、だからどうだというのだろう?」と応えてしまえばそれで無力化してしまえる。

前者、つまり、ある主張が自己矛盾を起こしていると非難された場合、状況は、じつは前記の場合と逆になる。数理論理学の体系としては矛盾許容論理という論理体系も存在し、その中では自己矛盾する主張をしても良い。しかし、ほとんどの分野の議論で自己矛盾する主張は排斥される。


このように非論理的という非難を妥当な推論の欠如からとらえるか、矛盾の発生からとらえるか、という二つの立場がありえるように、論理もまた、妥当な推論の存在からとらえるか、矛盾の不発生からとらえるかという二つの立場あるように思う。

数理論理学の論理を数学的構造(の類)とみなす立場は、論理を妥当な推論の存在からとらえている。しかし、実際には、ほとんどの分野で論理を矛盾の不発生からとらえるのが「役に立つ」見方だと思う。

そして、論理を矛盾の不発生からとらえれば、推論は全面的に論理的に妥当である必要はない。矛盾が発生しなければ良いのだ。もっとも、なぜ自己矛盾する主張は、あるいは矛盾する二つの主張の片方は排斥されなければならないのかは、哲学的に非常に重要な問題ではなかろうかと思うが、私にはその答えはない。

しかし、説得力のある主張や議論のためには、たんに矛盾していないという意味で論理的であるだけでは十分ではない。全面的に論理的に妥当な推論であるという意味で論理的である必要まではないが、ある程度の合理性、視野の広さ、一貫性というものが必要になる。ここでいう「一貫性」というのは、ドウォーキンのいうインテグリティに近いものを考えている。

このうち、「視野の適切な広さ」というのが重要で、数理論理学的な考え方からすると意外な要請ではないかと思う。規範理学の主張は、人々が道徳的な問題だと思うものの大部分をカバーしなくてはならず、また人々が道徳的な問題だと思わないものをあまりカバーしていてはならない。殺人の不道徳性は説明できるが、傷害、契約違反、差別、窃盗の不道徳性については何もいうことができない理論というのは、規範倫理学の主張足りえない。それは、たぶん道徳とは別の何かについての理論なのだ。

これは、ドウォーキンのコンセプトとコンセプションの区別を持ち出せばうまく説明できる(ドウォーキン自身は、こういう使い方をしていないかもしれないが)。「平等」というコンセプトの解釈として、実質的平等や形式的平等といったいろいろなコンセプションがある。しかし、「平等」というコンセプトの解釈としてアインシュタイン一般相対性理論を持ち出すことはできない。アインシュタイン一般相対性理論が正しかろうと、間違っていようと、それは道徳的な「平等」というコンセプトの解釈として適格ではない。

意外と、この「視野の適切な広さ」という制約は強力ではないかと思う。

*1:そして私に言わせればそのほとんどが見当違いなものである。