[哲学っぽいメモ] 論理の立場と反論理の立場

法学方法論には、論理(ないしは論理学)を敵視するような議論もある。

しかし、「論理」の概念をどのくらい広く取るかにもよるが、「論理」の概念を十分に広くとれば、論理や論理学に反対する理由はよく分からない。現代論理学は、古典論理にこだわっているわけではなく、直観主義論理も認めるし、古典論理直観主義論理の異同、性質などに基づいて、どちらの論理がどのような議論においてよりふさわしい論理か、という議論も論理学の範疇に含まれる。

  • 排中立は必ずしも真ではない? よろしい、直観主義論理を使おう。
  • 一つの理論から矛盾する命題がでることがある? よろしい、矛盾許容論理を使おう。
  • 義務や権利、可能性や必然性の概念が必要? 様相論理だ。
  • 種や型の概念が必要? 型論理。

こういう議論を続けている限り、どの論理を使うか、また「論理」の範疇をどこまで広げることができるか、という話でしかない。もちろん、論理が論理であるための必要十分条件というものがあって、もはやこれ以上、「論理」の範疇を拡大したらもは、やそれは「論理」ではない、そして我々が必要としているのはそこまで拡大された「正当化」や「論証」や「推論」の概念である、というのであれば、それは議論として成り立つ。しかし、論理の必要十分条件がモーダスポネンスの肯定であるのならば、それはそれほど厳しい制約ではないし、また論理の必要十分条件がモーダスポネンスの肯定であるのかさえはっきりしない*1


しかし、もう一つの(?)議論がありえる。それは、論理的に正しいだけでは十分ではないのだ、という議論だ。これは、数学における推論と論理についてだが、マイケル・デトゥルフセン「ブラウワー的直観主義」『リーディングス 数学の哲学―ゲーデル以後』において力説されている。

マイケル・デトゥルフセンの例えは秀逸だが、ここではあえて別のより突飛な例を使おう。例えば、証明の美しさはどうだろう? 論理的に正しい証明が二つある場合、より美しい証明のほうが価値がある、我々はそれを支持すべきである、とすればどうだろうか? 「では、その美しさの評価基準も取り込むような論理の公理体系を構築しよう!」ということになるだろうか。

たぶん、そうはならないだろう。論理学者や論理学の伝統は、より美しい証明とそれほど美しくない証明の違いを認識しているはずであるにも関わらず、故意にそれを無視しているとしか思えないように、証明の美しさを証明や推論の性質をして扱おうとしていない。何か言いがたい形で、証明の美しさは、論理における本質的な性質や価値ではないという合意があるとしか思えない。

推論や証明については、その論理的正しさ(論理学でいう妥当性)以外の性質があり、それを価値とみなすことができる、ということがポイントである。


突飛な例に代えて、よりマイルドな視点を取り上げる。さて、法解釈の説得的な議論の外延と完全に一致する、論理学の公理系と推論の妥当性を定義できたとしよう。

しかし、法解釈における議論の説得性とは、程度を付しうる、少なくとも程度の比較をしうる概念である。A説の主張も説得的だが、B説の主張の説得性のほうが勝る、ということがありうる。そして、この程度の比較を失っては、法解釈の議論の構造を捉えたことにはならない。では、論理における推論の妥当性に程度、ないしは順序を付しえるか? それを付してもなおそれを論理と呼びうるか? これが分からない。

命題の確実性に程度が欲しいのではない(それならば、「論理」の概念をかなり拡張すれば、許容できるだろう)。ここで欲しいのは、「ポイント20で有罪である」という命題なのではない。そうではなくて、いうなれば「論拠Aからは有罪であるという推論が、ポイント20で妥当である」*2という推論の性質なのだ。

そして、このような法解釈における議論の説得性については、ほとんど明らかになっていないが、審美性ともかなり関係があるように思える。しかし、数学でいう証明の美しさが、その証明で扱う概念が抽象的であるほど高く評価されているように思え、独創性にも価値が置かれているのに対して、法解釈では抽象度の高すぎる議論はあまり説得力があるようには思えず、独創性は好まれない。この複雑な説得性の性質がより明らかになるまでは、例え法解釈の説得的な議論の外延と完全に一致する論理学の公理系と推論の妥当性を定義できても、それはほとんど役に立たないだろう。

*1:数理論理学では、そう定義されているかもしれないが。

*2:このように基数的である必要ないが。