センスデータ説と直接実在論

センスデータ説と直接実在論のどちらが、僕たちの経験をよりよく説明するのか?

パトナムの『心・世界・身体』とサールの『心の哲学』を読む限り、彼らはセンスデータ説の議論を要領よく無力化しており、直接実在論をうまく弁護しているが、僕はこれはある意味では引き分けだと思う。センスデータ説も、彼らの枠組みに従って、提出された証拠をそれなりに上手く説明している。

しかし、センスデータ説と素朴実在論がその説明を争っている証拠は、じつは素朴実在論でなくては到達できないような証拠なのではないかと思う。「タージマハルを実際に見たときと、夢で見たときは区別がつかない」というのは、タージマハルが客観世界に実在することを前提しているのではないか。

その点で、センスデータ説はあまりに簡単的に相手の立場に譲歩している(このことはサールも指摘している)。あるいは、もしセンスデータ説が正しいのならば、彼らはセンスデータからどのように客観世界に到達できるのか説明する必要があるが、いままでのところその説明に失敗している。

だから、センスデータ説には説明価値がない。