実在

リチャード・ローティが次のような話を紹介していたように思う。しかし、記憶が定かではないこともあって、僕が自由に脚色して、架空の例として書く。

ある物理学者が、存在論相対主義者、反実在論者と論争し、ついにテーブルをドンドン叩きながら、「このテーブルは実在しているんだ!」と吠える。反実在論者が答える、「私の目の前にテーブルがあること、あなたがそのテーブルを叩いていること、ドンドンと音が出ていることは認めます。しかし、それが『実在している』ということが、それ以上どういった意味を持っているのかが分からないのです」。

この反実在論者(自由に脚色しているが、もともとの話ではローティ自身のはず)が、主張していることは理解できる。テーブルが目の前にあること、ある人が叩いていること、ドンドンと音が出ていることなどなどの他に、何か「実在している」という特別な性質なり何なりがあるようには思えない。「実在している」というのは、せいぜい、そういった諸々の性質、関係、把握かなにかの集まりであって、それとは別の何かではなかろう。というか、そういったものを切り離した「実在」「実在性」というのがどういったことなのか、僕には分からない。

しかし、その抽象的な「実在」「実在性」というのが意味不明だというのは、少なくとも僕にとっては、いわゆる実在論に反対する理由にはならず、むしろ、デカルト的懐疑に反対する理由にはなる。「実在論」という名前のつけ方は問題含みだが、いわゆる実在論よりも、むしろ、デカルト的懐疑のほうがこういった「実在」「実在性」ということの理解可能性に依拠しているように思える。

「実在」「実在性」というのがどういったことか抽象的に理解不可能であるとしても、それでも、テーブルが目の前にあることと、たんにテーブルが目の前にあると思っていることは違う。そして、その違いの上で、たんにテーブルが目の前にあると思っているだけなのではなく、テーブルが目の前にあるのだと言えれば、それでよいのだ。