素朴実在論

やっと、素朴実在論を理解できたような気がする。重要な視点は、「経験」とはパブリックなものなのか、プライベートなものなのか、という点なのだろう。

素朴実在論者は、「経験」とはパブリックなものだと考える。科学の基礎となる経験はパブリックなものでなくてはいけない*1。確かに、僕は他人の痛みを、自分の痛みとして経験することはできないが、彼がそれを経験していることを知ることができる。そして、おそらく僕が体験する経験は生物学的・生化学的・物理的基礎を持つ。そういうわけで、「経験」はパブリックなもの、間主観的なもの、もっと言えば客観的なものである。

センスデータ説は、「経験」とはプライベートなものだと考える。僕は他人の感じている痛みを、痛みとして感じることができない。ただ、彼だけが感じることができる。色も匂いも音も、経験は、それを経験する個人にしか及ばない。


「客体」とは、決定的にパブリックなものだ。そのため、センスデータ説をとると、プライベートなものである経験(センスデータ)と、パブリックなものである「客体」の間に、埋めがたい存在論的ギャップがあるように感じられることになる。逆に、素朴実在論をとると、そのような問題はない。


さて、では、素朴実在論者とセンスデータ説はどちらが正しいのだろう? 僕は、どちらも正しいのではないかと思う。

確かに、僕たちの「経験」には、本人にか直接アクセスできないものが含まれる。このいわゆるクオリアというやつには、たしかに一人称的にしか接近できない。そして、「痛みを感じている」とか、「赤いものを見ている」ということについて、本人は間違えることがない。本人がクオリアをそう認識しているということは、直ちにクオリアがあるということであり、本人がクオリアをそう認識していないということは、即ちクオリアがないということだからだ。

他方で、僕たちは「経験」という言葉に、もっと広い意味を込めている。例えば、「痛みを感じれば、それを避けようとする」という信念を持っているならば、僕は痛みについて、痛みのクオリア以上の何かについて知っているし、またそれを表現することができる。そして、また、僕たちは、他人のもつクオリアについて言及することができる。現にできるんだから、これは間違いない。ただし、こういった知識は、間違えることがある。


だから、哲学やもろもろの知識を「決して間違わないデータ」に基づかせたいなら、センスデータ説の提案に従うしかない。そして、決して間違わないセンスデータについての知識を客体の知識に拡張することができず、独我論に落ち込んでいくだろう。

他方、哲学やもろもろの知識を「概ね上手くいっている経験の全体」に基づかせるのなら、素朴実在論に従うことができる。

*1:「私には見えるんだ!」じゃダメ。