直接実在論

直接実在論の「直接」という形容は、なんらかの因果関係が直接的・間接的ということについてではなく、哲学的な認識論上の身分についてだ、ということに注意したい(僕がとんでもない勘違いをしているのではなければ)。

従って、直接実在論者は、「僕がパソコンのキーボードを見るとき、キーボードのセンスデータを見ているのではなく、まさにキーボードを見ているのだ」といことをいい、これが「直接」という形容の意味だが、それは照明器具から光が放射され、それがキーボードにあたり、反射して目に向かい、角膜を通って網膜にあたるという因果関係が、僕の経験に関係があることを否定しているわけではない(これはサールが強調している)。僕が、何かESP的な能力でキーボードを光が媒介した因果関係とは別に認識しているということを意味しているわけではない。


さて、直接実在論の「直接」という形容が、哲学的な認識論上の身分のどのような意味を表しているかは、いちおう二つの側面に分けることができるのではないかと思う。

一つは認識的正当化の側面(これは僕がこだわっている側面)で、もう一つは認知作用の個別化・同定の側面(パトナムが心の哲学に関係して力説している側面)だ。


認識的正当化の側面において、「(パソコンの)キーボードを見るという経験が、そこにキーボードが実在するという知識(信念)を、どのように正当化しているのか?」と問われれば、直接実在論者はこう答えるかもしれない。「私がキーボードを見ているということは、私とキーボードが実在的に持っている関係だから、まさにそこに実在的なキーボードがある。もし、キーボードが実在しなければ、その関係は成り立たない」。

センスデータ論者なら、そもそも「キーボードを見るという経験が、そこにキーボードが実在するという知識を、どのように正当化しているのか?」という問いをこのようには受けとらないだろう。彼らは、「キーボードのセンスデータを見るという経験が、そこにキーボードが実在するという知識を、どのように正当化しているのか?」という質問として、これを受け取る。そして、彼らの回答は「分からない」、「そもそも正当化していない」といったものかもしれない。


話が脱線するが、直接認識論者が前者のように考えるからといって、必ずしもデカルト的な全面的懐疑を逃れているわけではないかもしれない。錯覚という経験があることを直接実在論者は否定しないから*1、「なぜ、あなたの経験がすべて錯覚ではないと分かるのか?」と問うことは許されている。


話を戻して、認知作用の個別化・同定の側面において、「キーボードを見るという経験は、(パソコンの)マウスを見るという経験と、どう区別されるのか?」と問われれば、直接実在論者はこう答えるかもしれない。「キーボードを見るときは、私とキーボードの間に実在的な『見る』という関係があり、マウスを見るときは、私とマウスの間に実在的な『見る』という関係がある。前者の関係及びその関係の一方の端である実在的なキーボード、後者の関係及びその関係の一方の端である実在的なマウスが、二つの経験を区別している」。

ここでも、センスデータ論者なら、そもそも「キーボードを見るという経験は、マウスを見るという経験と、どう区別されるのか?」という問いをこのようには受けらないだろう。「キーボードのセンスデータを見るという経験は、マウスのセンスデータを見るという経験と、どう区別されるのか?」という質問として受け取るだろう。そして、その答えは、何かセンスデータの内容に関するものだろう。

*1:もし否定するとすれば、それは全く法外な主張だろうし、例えば幻肢痛といったものを説明できない。むしろ、ある意味ではセンスデータ説が胡散霧消してしまった「錯覚」という概念を、まさに直接実在論が復興させたのかもしれない。