タイプ同一説

心の哲学における、タイプ同一説とトークン同一説の違いが理解できたように思う。


タイプ同一説とは、戯画化していえば、「『痛み』はこれこれの細胞の興奮と同一である。同様に、『野口英世はオリンピックで優勝した』という信念とか、『1002に2を足して、1を引けば、1003になる』とかいう信念にも、それぞれ対応する細胞の興奮がある」というものだ。

これは全く受け入れられない。

第一に、僕が持ちうる信念とか、概念とかは、脳細胞の数より多いだろう。

僕は、どんな大きな数でも計算を行うことができるし、同一だとか異なるとか理解できるのだから、自然数だけで考えても、個々の自然数すべてに対応する特定の細胞があるとか、「nに1を足せば異なる数になる」のnに個々の自然数を入れた個々の命題すべてに対応する特定の細胞があるとか、ありえない話だ。脳の細胞のすべての順列組み合わせをやっても足りるはずがない。

第二に、僕は学習によって新しいことを理解したり、新しい概念を覚えたりする。そこで、例えば「電波時計」という概念を新たに覚えたからといって、「電波時計」に対応する細胞がそれまで僕の脳の中で使われずに眠っていたり、その概念を覚えたときに新たに誕生したりということは受け入れられない。


もちろん、この批判は初めに戯画化したタイプ同一説にだけ当てはまる議論だ。

しかし、いったいどういう脳内の現象のタイプを持ち出せば、無限にも思われるような僕の持つ個々の信念や概念のそれぞれに対応するような脳内の現象を見つけ出せるのか、皆目見当がつかない。


パトナムの機能主義やデイヴィドソンの非法則性同一説が主張する論拠はこのようなものではないが*1、それらの直観の源は、このようなものかもしれない。

つまり、心は痛みだけではなく信念や概念をも持つものであって、タイプ同一説が心のすべてを解明するならば、個々の信念や概念の同定・区別の問題を解決しなければならないはずだが、それは言語哲学が苦慮してきた「指示」の問題などを引きついた形になるか、それらをあっさりと解消するような形になるだろうと思われるが、見込みのありそうな提案がないのではないか、という疑惑。


二点気づいたことがある。

一点目。先ほどの自然数全体の数は脳の細胞の数より多いではないか、という問題は、いろいろなところに流用できそうな気がする。

トークン同一説の代表であるパトナムの機能主義にも当てはまるかもしれない。現実に、人間の脳は無限の記憶容量を持つチューリングマシンではありえないのだから、人間の脳はチューリングマシンのようなものだ、と言って済ませることはできない。

これはたぶん、問題の立て方が、どこかおかしいのだ。僕たちは何らかの意味で、自然数に含まれる数すべてを同定したり、区別したりはできていないのだ。そう考えなければ、ほとんど論理的な矛盾に陥るのだから。

もっとも、この問題をあっさりと回避する議論はありえる。心身二元論+数学プラトニズムの立場を採用することだ。同時に、これは人が心身二元論や数学プラトニズムに魅力を感じる理由の一例ともいえるだろう。


二点目。痛みを感じるなどの生得的な心の機能については脳の現象にパターンが見出せる可能性があるが、「電波時計」を理解するといった生得的ではありえないような心の機能については脳の現象にパターンなどありえなさそうに思える、ということは、逆の方向にも用いることができるように思われる。

もし、スクリーンいっぱいに示された虹のグラデーションを見て、どの文化の人も良く特定された同じ脳の現象のパターンを示すならば、ウォーフの議論に不利ではないだろうか。

逆に、人に数をどんどん数え上げさせた場合に、12までは非常に良く似た脳の現象のパターンを示すが、13からは突然人によって異なるパターンを示し出すということになれば、「12の数までは生得的だが、それ以上は文化的に習得したものだ」ということになるかもしれない。

このような区別は、すでに図形の認識の研究において、一定の効果を挙げているようだ。

*1:ローティはこの種の批判をしていたかもしれないが、よく覚えていない。