デイヴィドソンの真理条件意味説

僕たちは、(1)語の指示は成功したり失敗したりする、(2)語の意味は変わっていく、(3)文を理解したと思っても後から自分が何を理解したのか良く分からなくなってしまったと感じることがある、ということは分かった上で、少なくともそのようなことを感じながら言語を使用している。

(1)(2)(3)のことを、わざわざ哲学者に指摘してもらわなくても僕たちは当然のこととして前提した上で言語を使用しているし、そのために不都合があることも知っているけど、それなりに対処しながら生きている*1

デイヴィドソンの真理条件意味説は、これらの事実を直視し、むしろのこれらの事実を極大化したところで成立する意味論を探求している点で、優れていると思う。


また、意味の外在説に対するサールの「それは発話における指標性を見落としているのだ」という指摘は当を得ていると思うが、デイヴィドソンが発話における指標性と格闘している点も興味深い。


もっとも、デイヴィドソンの議論は、「字義通りの意味」以外の「発話の力」を全く説明してくれない。少なくとも、「字義通りの意味」から、少なくともそれを源の一つとして「発話の力」が出てくることをどう説明するのか、ということは「字義通りの意味」を説明する理論の試金石の一つではあると思うのだが。

また、デイヴィドソンのいう「解釈の理論」が「翻訳の理論」とどう違うのか、ということがよく分からない。デイヴィドソンの考えでは、「翻訳の理論」は例えば英語から日本語への翻訳を影響するのに対し、「解釈の理論」の解釈者が英語の文(の全体)に見出した論理構造を(たまたまその解釈者が日本語話者であった場合は)日本語で述べる、ということだろう。

しかし、その理想的には一階の述語論理で形式される論理構造がどのように世界のもろもろの存在者を充足するということはどういうことか、ということが心についての理論とともに示されないと、何か取り残しているように感じる。

イカン『言語哲学』における批判

ところで、文の指標性について、デイヴィドソンが挙げる二つの変項、発話者pと時tがでは少なすぎる、というライカンの(?)批判は当たっていないのではないだろうか。

もちろん、文の指標性は「どこのことについて話しているか」や「どのタイムゾーンを前提に話しているか」ということにも及ぶ。しかし、そういったもろもろの文脈は、発話という指標を特定できればそれで良いはずだ。そして発話を特定するためには、さしあたって発話者pと時tで十分ではないだろうか*2デイヴィドソン自身の論文も、指標を、発話そのものとするか、時刻と発話者とするか、迷っている箇所がある。

「『オレは腹減った』が真なのは、発話者pが時tにおいて空腹であるとき、そのときに限る」のpとtについて、解釈者が複雑な信念のネットワークを持っていることは、デイヴィドソンの議論において前提されている。

だから、解釈者は、発話者が持っているだろうと想定するを信念、場合によっては自らの持っている信念とほぼ同じだろうと想定しているところの信念を使って、pとtから話題となっている場所、話題となっているタイムゾーンなどを選び出すことができる。例えば、「『今、東京にいます』が真なのは、発話者pが時tにいる場所が東京であるとき、そのときに限る」。

このデイヴィドソンのプログラムは、たしかに困難な道を選んでいる。ライカンの提案するあらゆる指標性を飲み込む関数αを使ったほうが、簡単な道ではあるだろう。しかし、それはデイヴィドソンのプログラムが原理的に不可能だ、という話ではないだろう。

また、デイヴィドソンのプログラムにおいては、(僕は発話そのものを変項としたほうが混乱がないと思うが)発話者pと時tを変項をとることは自然だとはいえる。なぜなら、それは根源的解釈の状況において、解釈者が確実に利用できる証拠によって特定できる変項だからだ。

*1:バベルの塔の伝説の僕たちの言語が分かれる前の「初めの言語」なるものは、言語でもなんでもないと思う。たぶん、あの伝説はファンタジーで、「初めの言語」はその細部は僕たちには理解しがたいある魔法のことなのではないだろうか。

*2:ただ、ある人工知能がネットワークを通して数百人と同時に会話している、という場合を考えると、そうは言えないかも知れない。