デイヴィドソン『真理と述定』

ドナルド・デイヴィドソン『真理と述定』*1

書籍の帯には「デイヴィドソンの真理論の応用」と書かれているけど、7章中で3章までは、少なくとも僕にとっては今までで一番分かりやすいデイヴィドソン哲学の全体像の解説だった(それでも、難しくて、十分に理解できたとは言えないんだけど)。残りの4章からで「述定の問題」を中心的に扱っているけど、これもデイヴィドソンの真理論の「応用」というよりも、それについての別の側面からの解説といった方がよりしっくりくると思う。

この本で理解した限り、デイヴィドソンの真理論は以下のようなものになっている:

  1. ある人のある発話の意味を解釈するためには、その発話の真理条件を理解しなくてはならない*2
  2. ある人のある発話のの真理条件を理解するためには、その人の言語を理解しなくてはならない
  3. その人の言語を理解するためには、その人の諸信念をかなり多く理解しなくてはならない
  4. その人の諸信念をかなり多く理解するためには、その人の言語を理解しなくてはならない
  5. 3と4は循環する。そこで、解釈者(僕たち)は、被解釈者(相手)の諸信念のほとんどが解釈者の諸信念と一致するという仮定を立てる必要があり、その仮定が偽であった場合、解釈に失敗する
  6. 実際に、解釈者(僕たち)は被解釈者(相手)の発話の意味を解釈できている。ということは、解釈者は被解釈者の諸信念はほとんど一致している
  7. 解釈者と被解釈者の諸信念がほとんど一致しているということは、それらを生み出した共通の源泉、つまり客観世界が実在する

ここでのポイントは、1の真理条件の理解の必要性ということから、その真理条件という概念それ自体が客観世界との対応という概念を含んでいるという論法でもって客観世界の実在性という結論に到達しているのではなくて、解釈者と被解釈者の信念の一致という事実によってその結論に到達している、という理路だ。

ただ、この単純化した構図には、僕が思うにちょっとした問題がある。それは、解釈者と被解釈者の信念を一致させるものは別に「客観世界」でなくても構わないのでは? ということだ。魔法的なテレパシーでもって無意識に情報交換をし、それによって諸信念が一致していてもべつに構わないのでは?

この点については、デイヴィドソンがこの本の84項あたりで述べている、解釈者は被解釈者との信念の不一致の可能性について、あらゆる不一致をたんに同程度にありそうなものとして扱うのではなく、被解釈者の状況・環境(眼鏡を外しているとか、霧がかかっているとか)といったことによって、ありそうな不一致、説明のつきそうな不一致を選り分ける、ということが説明になるかもしれない。「そういった作業を可能にしているものが、客観世界なのである」ということか?

*1:

真理と述定 (現代哲学への招待―Great Works)

真理と述定 (現代哲学への招待―Great Works)

*2:少なくとも、その発話に密接に関連する叙述文の真理条件を理解しなくてはならない。