結果無価値説

つぎのような事例を考えてみる。

あるヤクザ組織で、Aが組織の金を持ち逃げした。幹部構成員BはAを探し出し、事務所に拉致し尋問たが、Aは「その金をすでに使い込んだ後であり、返せる見込みは全くない」と答えた。これを聞いたBは激怒し、拳銃を持ち出してAに突きつけた。そして、「それなら、死ね」と言うとともに、拳銃の安全装置を解除した。


このとき、Aが死ぬ「危険性」は、どのくらい高いだろうか?

(1)Aが組織を侮辱したこと、(2)ヤクザ組織は体面を重んじること、(3)B個人にも体面があること、(4)実際に凶器を準備したことなどを考えれば、Aが死ぬ可能性は低くない。

他方で、(5)Aから金銭を回収できる可能性がゼロではないこと、(6)殺人を実行するれば警察の捜査がBにおよび逮捕される可能性ことがあること、(7)それは組織にとっても不都合であること、(8)そのためいずれにせよBを殺害するとしても事務所ではなく別の場所で手はずを整えてからのほうが良いことなどを考えると、その場でその拳銃で必ず殺害するだろうとは言いがたい。

何%とは、言いがたい。もっとも、「まぁ、50%よりは危険なのではないか」という程度のことはいえるかもしれないので、とりあえず大体50%としておこう。


考えてみれば、Aが死亡するかどうかは、ほぼ全面的にBの意思決定に基づいている。そのため、上の(1)〜(8)の事実は、Aの死の危険性の高さの推定において、Bの殺意の強さという直接的な根拠の、それを推測する間接的な根拠となっている。

しかし、このような危険性判断の段階でBの殺意の強さを考慮要素とすることを、結果無価値説は拒否ならば、(1)〜(8)の事実は使えないことになる。


では、仮に、Bの殺意の強さを全く考慮せずに、Aの死の危険性を見積もってみようと考えてみる。それ自体、かなり無理のある推定だと思うが、とにかくやってみるとしよう。

そうした場合、Aの死の危険の高さは10%以下なのではないか? 普通、人は殺人をおかさないのだから。その前後の心理状態を全く白紙だと考えれば、ある人に対して突然殺意を抱いて殺人を実行するなどという人が、人口の10%もいるとは考えにくい。


もう一つ別の思考実験をしてみよう。

ある少年Cが、少年Dを捕まえ、暴行を加え、重傷にした。また、Dは意識不明となった。驚いたCは、発覚をおそれ、Dをロープで固く縛り、身動きできないようにして、自動車のトランクに積み、夜の港に連れて行った。それから、Cは車のトランクからDを引きずり出し、一押しでDを海に突き落とせるところまで引きずって行った。そして、重りをDに結びつけた。今、かなりの重労働に疲れたCは、Dを突き落とす最後の動作をするまえに、ひとまず呼吸を整えている。


このケースで、Dが死亡する危険性はどれくらいだろう。Cの心理状態を考えれば、その危険性は80%以下にははならないように思う。

しかし、Cの心理状態を考えないならば、その危険性は10%以上にはならないだろう。これは、Cが何かの事情で立ち去った後、たまたま通りかかった別の人物がDを突き落とすだろうか、と考えてみればよい。10%以上の確率でその人が突き落とすというのは、ありそうにない話だ。


このように、未遂の場合に犯罪実行者の心理状態を全く考慮せずに結果発生の危険性を推定しようとすることは、(1)それ自体かなり無理があるし、(2)仮に推計してみたらかなり低い値しか出てこないはずだ。その上、重要な情報を大幅に制限するのだから、(3)その推計は精度が悪いだろう。

結果無価値説が主張しているのがこのようなことであるならば、それは受け入れがたい。

たぶん、結果無価値説が主張しているのは、C自身がDの死亡の危険性は90%だと見積もっているとして、その見積もり自体が間違っているときに*1、その見積もりを危険性の高さとするべきではない、ということだろう。

*1:例えばそのときは引き潮で岸壁の下には柔らかい砂地しかなかったとか。それでDの死の危険性がなくなるわけではないが、Dの見積もりには重大な欠陥がある。