ポルノ反対論・擁護論

ポルノ反対論、擁護論について勉強してみようと、書籍をいくつか読んだ。

  • ポルノ反対論・規制論
    • ポルノグラフィ 「平等権」と「表現の自由」の間で - 反ポルノ運動で影響力がある法学者キャサリン・マッキノンの著作。(1)製作過程での性暴力、(2)性暴力の誘発、という二点からポルノの害悪を説いているが、(3)ポルノの頒布それ自体が女性という集団への侮辱である、という議論もあるようで、それを独立した害悪ととらえているのかどうかよく分からない。なお、マッキノンたちが主張している法制度が民事上のものであるという点で、ポルノ「規制論」と呼ぶのはいくらかミスリーディングだけど、カナダの刑法による規制も好意的に紹介しているのであくまで民事上のものであるというに強い原理的なこだわりはないのだろうということと、「規制論」以外にうまい表現が思いつかないことから、民事上の制度も含めてそう位置づけることにする。
    • キャサリン・マッキノンと語る―ポルノグラフィと売買春 - ポルノ・買春問題研究会APP研)が、前述のマッキノンのインタビュー*1と自分たちの立場の論述をコンパクトにまとめた本。論述部分はマッキノンの立場を下敷きにしているけども、完全に同じというわけではないかもしれない。なお、96-97項のグラフの扱いには大いに疑問がある。
    • ポルノグラフィと性暴力―新たな法規制を求めて (福島大学叢書新シリーズ) - APP研と関わりのある日本の法学者の著作。こちらもマッキノンの立場に非常に近いが、まったく同じというわけではない。ポルノ製作過程での被害の説明が長く、かなり具体的。マッキノンたちの「反ポルノグラフィ公民権条例」の日本語訳がついており、この条例の実現、波及、裁判による違憲判決のストーリーも詳しい。
    • インターコース―性的行為の政治学 - マッキノンとも協力し、同様に反ポルノ運動の代表者として有名なドウォーキンの著作。ただ、僕がチョイスを誤った。この本は「男女間セックスにおける女性差別」への批判であって、ポルノ反対論とか、規制論とかいうのは(とくに後者)、明示的には前面に出てきていない。
  • ポルノ擁護論・規制反対論
    • ポルノグラフィ防衛論 アメリカのセクハラ攻撃・ポルノ規制の危険性 - まさに「ポルノ擁護論・規制反対論」と呼ぶべき本。分量も多く、(少なくとも米国における)擁護論・規制反対論の論点を網羅しているのではないかと思われる。ただ、マッキノンとドウォーキンへの個人的批判がやたらと多く、しかもその内容が不公正といわざるを得ないところがある。なので内容豊富だけど、ある程度割り引いて考える必要がありそう。
    • 女はポルノを読む―女性の性欲とフェミニズム (青弓社ライブラリー) - フェミニストの立場から、レディコミとハードなBLという女性向けポルノを分析した書籍。明示的スタンスとしては「従来のポルノ批判に批判的な立場からのポルノ分析」といったところだけど、実質的にはポルノ「擁護論」にまで踏み込んでいるといってよいと思う。ただし、法的な「規制反対論」にまではいたっていない。

全体的なコメント

僕はポルノ規制賛成派ではないけれど、今回いくつか読んだ中では、ポルノ反対論・規制論側の中里見博『ポルノグラフィと性暴力』がもっともよく整理されており、論旨もかなり明解で、理解しやすい。また、疑問がないわけではないけれども、ポルノ擁護論・規制反対論への反論もそれなりに丁寧で誠実な印象を受ける。

それに対して、ポルノ擁護論・規制反対論のナディーン・ストロッセン『ポルノグラフィ防衛論』は、前述のように、割り引かざるをえないところがある。


読んで面白かったという点では、守如子『女はポルノを読む』がもっとも面白かった。マンガにおけるモノローグとして示される文章の数量的分析というアイデアはものすごく興味深く、なるほどと思わされる*2

ただ、レディコミやハードなBLの読者が女であることについての懐疑論への反論を、読者アンケートの自己申告と「アンケートは手書きなので、それらの筆跡や文体を見る限りで判断すると…」(98-99項)という形で行っている。しかし、その懐疑論がもっともなものだとすると(僕はそもそもこの懐疑論がそんなにもっともなものだと思っていないけど)、この反論はいかにも弱い。これはむしろ、コンビニや書店という流通業者が商品購入者の属性という形で情報を持っているのではないだろうか*3

ポルノの定義

今回読んだポルノ反対論・規制論はほとんど全てほぼマッキノンの立場を踏まえているけど、いろいろと疑問がある。

まず、マッキノンが深く関与した反ポルノグラフィ公民権条例は、原文ではポルノグラフィを次のように定義している:

"Pornography" means the graphic sexually explicit subordination of women through pictures and/or words that also includes one or more of the following: ...

http://www.nostatusquo.com/ACLU/dworkin/other/ordinance/newday/AppD.htm

これが、柿木和代(訳)『ポルノグラフィ 「平等権」と「表現の自由」の間で』では「写真や言葉の両方または片方を通じて、女性を性的に支配している状態を描いたもので、さらに次のうちの一つ以上を含んだものである。…」(原注、第一章(32))、中里見博『ポルノグラフィと性暴力』では「図画および/または文章をつうじて、写実的かつ性的に露骨なかたちで女性を従属させることであり、次の要素の一つ以上を含むものである。…」(233項)と訳されている。微妙な違いは他にもあるけど、根幹的なところとして、「the ... subordination」を前者は「支配している状態を描いたもの」つまり事物として訳しており、後者は「従属させること」つまり行為として訳している。

僕の結論としてはこれは事物として訳すほうがベターだと思うけど*4、この混乱は、マッキノンの議論自体に由来するように思える。


『ポルノグラフィ 「平等権」と「表現の自由」の間で』のなかで、マッキノンは「ポルノグラフィは行為である」との考えを前提にしているように見える箇所がある:

このようなアプローチがあるなかで、「ポルノグラフィは女性への攻撃行為である」と主張することは、比喩的、魔術的、言葉の遊び、非現実的、または文字どおりの誇張であるか、あるいはプロパガンダと見られてしまう。


『ポルノグラフィ 「平等権」と「表現の自由」の間で』28項

マッキノンはここの「このようなアプローチ」に批判的で、「ポルノグラフィは女性への攻撃行為である」と主張することは「比喩的、魔術的…プロパガンダ」ではない、つまりポルノグラフィとは行為なのだ、と前提していると考えるのが自然だろう。前後の文脈からも、まさか、「はい、じつは魔術的比喩のプロパガンダなんです」という複雑なジョークとは思えない。

しかし、他の部分では、マッキノンは明らかに「ポルノグラフィ」を行為ではなく事物を指す言葉として使用している:

部屋の隅の棚に載せてあるポルノグラフィが自分で飛び降りてきて女性を襲うのではない。理屈の上では、女性は、おとなしくカバーに包まれたままのポルノグラフィが山積みされた倉庫の側を、きわめて安全に通り過ぎることができる。問題なのはポルノグラフィ制作の過程であり、その使用によって何が起こるかなのである。


同書33項

行為は、部屋の隅の棚に載せることも、倉庫に山積みすることも、制作することもできない、比喩や誇張でなければ。


いろいろ考えたが、(翻訳の問題でなければ)マッキノンの議論は混乱しているか、ひどく読者をミスリードするレトリックを使っていると考えざるをえない。

マッキノンに好意的に考えれば、この行為と事物の間の混乱をきたしているのは、べつにマッキノンだけではなく、マッキノンの反対論者も同様だと考えることはできるかもしれない。例えば、「ポルノグラフィは言論だ」「ポルノも表現だ」という主張があれば、そこでの「言論」「表現」が行為を指しているのか、事物を指しているのか曖昧で、そう主張する人は混乱しているのかもしれない。

そして、「ポルノグラフィは言論だ」という主張に対して、それとパラレルになるような表現として、マッキノンは「ポルノグラフィは行為だ」という表現を使っているのだと思われるから、マッキノンだけに責任があるというわけではないかもしれない。

しかし、そうだとしても、それは混乱した反対論者の主張に、混乱した反論をしている、ということになるだろう。

ポルノと性暴力の因果関係

マッキノンの議論は、ポルノと性暴力の因果関係の心理的カニズムの説明の点においても、混乱している、矛盾しているとまでは言いきれないものの、好意的にいっても、かなり複雑で見通しの悪いものになっている。

まず、次の箇所でポルノが男たちを「駆り立てる」とマッキノンははっきりと主張する:

ポルノグラフィの中の思想が女性を襲うのではなく、男性が襲うのであり、ポルノグラフィによって作られ、変えられ、駆り立てられた男たちが襲うのである。


同書32項

しかし、すぐ後で述べられることは、「駆り立てる」というにはかなり弱い:

これは強かん犯がポルノグラフィの思想によって説得されたわけでもなく、もちろん感情にあおられたわけでもなく、かといって概念的にあるいは感情的に駆り立てられたわけでもない。そうではなくて、映像や言葉を性的刺激剤として使うことにより、無意識にかつ原始的な形ですりこみが行われ、そこから得られてる性的興奮に慣れてしまったためなのである。


同書33項


次のような記述もある:

しかし強かん犯はポルノグラフィによって、被害者が不同意であることを認識できなくなるので、これでは不十分である。これで分かるように、ポルノグラフィは「暴力と強かん、暴力と性行為の違いの分からない人間」を作り出している。


同書123項

しかし、マッキノンは次のようにも書いている:

ポルノグラフィを見る人はやがては、なんらかの形で、それを三次元の世界で実行したくなるのだ。やがては、なんらかの形で彼らは「やる」のだ。そうさせられるのだ。それが可能だと感じたとき、そのために罰せられないと感じたとき、実際にやるのだ。


同書36項

もし、被害者が不同意であることを認識できなくなるのであれば、そのような認知能力の欠損に陥ったポルノ使用者には「そのために罰せられないと感じたとき」という制約は機能しないだろう。


ここまでの引用も含めて、マッキノンはポルノ使用による心理的影響は、無意識的なものだと議論しているように見える:

映像や言葉によって無意識な心理介入や肉体の操作が行われ、特にその結果として攻撃やその他の差別行動となった場合、修正第一条はそのような心理介入や肉体操作をどこまで保証するかを問うているのである。


同書33-34項

しかし、マッキノンが心理的影響の具体例として挙げるものは、どちらかといえば意識的なものだ:

こういう点について、最近レイプ・ポルノや殺人映画の愛好者である犯人でなければ言えないようなことが正直に述べられたのを読んだ。「エロ本や風俗ショウを見ているうちにムズムズしてきて誰かを強かんしたくなる。マスターベーションをして『いく』までレイプのこと、今までレイプしてきた女のことを考えながら、自分がどんなに興奮したかを思い出すんだ。苦痛でひきつった女たちの顔を思い浮かべるとスリルでゾクゾクしてくる」。


同書36項

第一に、彼はこの報告の時点で、ポルノと自分の性犯罪の因果関係をはっきりと意識している。第二に、彼の報告が正しいものであれば、彼はその犯行当時においても、ポルノによる自分の欲求の喚起について、意識的・自覚的であったように見える。加えて、この例は、「被害者が不同意であることを認識できなくなる」というマッキノンの主張に疑問をいだかせる。


べつに、ポルノが使用者に与える心理的影響が一種類でなくてはならないわけではない。また、意識的か、無意識的かというが決定的に重要な論点であるわけではない*5。しかし、マッキノン自身がポルノの影響の心理的カニズムとして力説している内容は、よくいってもバラバラであって、全体のピースとして組み上げるためのヒントは存在しないように思える。


たぶん、マッキノンは、ポルノの影響が「意識的」なものであるとされた場合、それが言論媒体として「言論の自由市場」において反論されるべきものであるように議論が展開することを警戒しているのだと思う。83-84項の議論に、それに近い態度が見える。

ポルノの影響が「言論の自由市場」における反論、擁護、再反論によって是正されているようなものではない、という結論については、理解はできる。部分的には賛成もする。「慣れる」という影響はたしかにあるだろうし、それは反論によって「是正」されることはないだろう。

しかし、これは意識的、無意識的という区別とは別物だと思われる。

*1:質問者が一定していないので「インタビュー」というより「質疑応答」といったほうが正確かもしれない。

*2:台詞とモノローグのマンガ表現上の違いを説明するために出された、台詞の通常の吹き出しの例には苦笑したが(141項)。

*3:ハードなBLやレディコミがどれだけコンビ二で扱われているか僕はよく知らないが、扱われている分については、コンビ二はレジで処理するときに購入者の性別も入力しているので、その統計を持っているだろう。書店がそういうレジ処理時の性別入力をしているかどうか知らないが、少なくとも店員の証言という程度の情報は得られると思われる。

*4:中里見は141項で行為として訳した理由を説明しており、そこで強調したいことは理解はできるものの、結局、事物なのか行為なのかという点においては説得的だと思えない。中里見自身も、自らが使用する「ポルノグラフィ」の定義としては、「性的に露骨で、かつ女性を従属的・差別的・見世物的に描き、現に女性に被害を与えている表現物」としている。

*5:少なくとも、僕は決定的ではないと考える。しかし、マッキノンはそう考えないのかもしれない。

『自由と行為の哲学』

自由と行為の哲学 (現代哲学への招待Anthology)

自由と行為の哲学 (現代哲学への招待Anthology)

  • 作者: P.F.ストローソン,ピーター・ヴァンインワーゲン,ドナルドデイヴィドソン,マイケルブラットマン,G.E.M.アンスコム,ハリー・G.フランクファート,門脇俊介,野矢茂樹,P.F. Strawson,G.E.M. Anscombe,Harry G. Frankfurt,Donald Davidson,Peter van Inwagen,Michael Bratman,法野谷俊哉,早川正祐,河島一郎,竹内聖一,三ツ野陽介,星川道人,近藤智彦,小池翔一
  • 出版社/メーカー: 春秋社
  • 発売日: 2010/08/01
  • メディア: 単行本
  • クリック: 30回
  • この商品を含むブログ (15件) を見る

二章に分かれ、第一章では自由意志と決定論の問題、第二章はある出来事をある人の行為としてその人に帰属させる原理は何か、という問題を扱っているアンソロジー

読んでいるあいだは、それぞれの論文に対して何かしらコメントしたいことがあったように思うのだが、忘れてしまったので覚えている範囲でごく簡単なコメントをする。

G・E・M・アンスコム「実践的推論」

アンスコムの結論は非常にクリアであり、かなり納得できるものだ。つまり、実践的推論における「論理」や「妥当性」は、理論的推論(つまり記号論理学でいう推論)と同じものであり、ただその同じ論理や妥当性が、プラグマティックな目的のために使用されているだけである。よって、理論的推論の妥当性と同様、実践的推論の妥当性は心理現象ではない。

ただ、これが行為の帰属の問題にどう関わるのかは、今ひとつはっきりしない。たぶん、この議論によってデイヴィドソンの議論はたしかに何かしらの対応を迫られるだろうが、あっさりと「しかし、行為の帰属という特定の問題においては、その推論を心理的現象として実現しなければならない」と答えることもできるように思う。

マイケル・ブラケットマン「計画を重要視する」「反省・計画・時間的幅をもった行為者性」

「反省・計画・時間的幅をもった行為者性」の議論の進め方は、非常に面白い。「行為者性」という概念にむしろ非親和的だと思われるロックの心理学(?)をほぼ前提にして、さぁ、ではそこに行為者性を組み込むためにはどうすればいか、という議論を組み立てる。

ただ、これらのブラケットマンの議論によって導かれる「行為者性」は、僕たちの道徳的直観、および法律上の責任の帰属の必要性からみて、狭すぎるように思われる。この狭さを維持するとすると、日本の刑法学の人格形成責任論のようなもので補われる必要があるかもしれない。

あと、この二つの論文は、アカデミックな哲学の論文なのではあるけども、なにか自己啓発本的な示唆と影響力を持っているように思える。僕自身、むしろそちらの面で考えさせられたのは秘密だ。

『神は悪の問題に答えられるか―神義論をめぐる五つの答え』

神は悪の問題に答えられるか―神義論をめぐる五つの答え

神は悪の問題に答えられるか―神義論をめぐる五つの答え

五人のキリスト教信仰*1を持っている哲学者と神学者が、悪の問題についての彼らなりの答えを論述し、ディベート形式で相互に批判と再反論を行う。悪の問題とは、キリスト教への反駁として持ち出される次のような議論だ*2:

  1. 神は全能である
  2. 神は完全に善である
  3. 悪が存在する

1〜3の命題がすべて成立することはないが、3が成立しているので、1か2が成立していない。


ここでいう「悪」とは、窃盗、殺人などの人間が行う「道徳的悪」だけに限らない。地震、土砂崩れなどの災害、どうしようもない疾患などの「自然的悪」も含む。つまり、ここでいう「悪」とは、人間が出会う悲惨な出来事や苦痛全般を指す。

もし、神が完全に善であるならば、そのような事態を避けようとするだろう。そして、神が全能であれば、実際にそのような事態を避けることができるはずである。しかし、そのような悪がこの世に存在することは確かである。よって、全知全能で完全に善であるような神など存在しない。


僕は、これが完全に論理的な議論だとは思わない。そして、有神論の立場から1〜3が同時に成立するとする、きわめて伝統的な回答が存在すると思っている。しかし、そこで僕が念頭においている回答は、僕自身の、そしてたぶん現代の先進諸国の多くの人々の道徳的直観に反する(後述)。

つまり、悪の問題とは、答えようはいくらでもあるのだが、その答えかたによってその人─クリスチャンであろうとなかろうと─が神や道徳についてどのように考えているのか分かってくる、という問いなのだ*3


ところで、先ほど僕がふれた「有神論の立場から1〜3が同時に成立するとする、きわめて伝統的な回答」とは、人類の、あるいは民族の集団的な責任というものを非常に強く主張する; つまり、神がある人の信仰を試すために、あるいは制裁を加えるために、その人の子ども─その子ども自身は個人的には試されてもいないし、個人的には何の罪も犯していない─を殺しても、神の善性は傷つかない、なぜならその子どもも人類の一員、あるいは民族の一員として集団的責任を負っているから、というものだ。これこそ、旧約聖書(とくにダビデとバト・シェバの物語や「ヨブ記」)で示唆されている回答だと思うし、アウグスティヌスもそれに近いところにいるのではないかと思う。

しかし、この本の五人のうち、誰もこの答えをとらない。人類の一員としての集団的責任という考え自体はいくらかの説得力があるかもしれないが、例えば、先天性疾患で苦しんで死んでいく嬰児をみながら「これこそ正義」とはなかなかいえない、というのが、僕たち現代人の道徳感覚なのであり、彼らもそれを共有しているということなのだろう。


彼らは皆、最終的に何らかの形でキリスト教信仰を擁護する。つまり、この本には、キリスト教信仰は結局のところ擁護不能であり、破棄すべしとする論者は含まれていない。他方、『破綻した神キリスト』*4のバート・D・アーマンは、熱心なキリスト教徒であったが、この悪の問題についてキリスト教信仰は擁護不能との結論に達して、棄教した。併読おすすめ。

*1:必ずしも伝統的なものではなく、もはやキリスト教信仰といえるのかどうか微妙な場合もあるが─この評価は僕独自のものではない。『神は悪の問題に答えられるか』の中で、しばしば、彼らは相互に他の立場がもはやキリスト教信仰といえるのかどうか疑問を呈している─。

*2:必ずしもキリスト教だけに関わるものではないが。

*3:ちなみに僕自身の回答は「神は存在しない」。

*4:

破綻した神キリスト

破綻した神キリスト

素粒子知覚人の思考実験

さきほど、心の哲学、認識論、現象的意識に関わる思考実験を思いついた。たぶん、このような思考実験の先行する文献はないものと思う。


次のような人々を考えてみよう。彼らは、電子、陽子、中性子の位置を正確に直接知覚することができる(ここでは、電子・陽子・中性子をあくまで正確な位置や運動を持つ素粒子として考えるけど、たぶん、量子論的に拡張することもできるだろう)。彼らは、少なくとも自分の体から数十メートルの範囲の電子、陽子、中性子のどれについてもそこにあると知覚することができ、目の前のコーヒーカップにどの素粒子がいくつどのように含まれているのか直ちに理解することができる。また、彼らは、中性子については「すべすべ」、電子については「ざらざら」、陽子については「ぬるぬる」した感じがするという報告をする。

さて、この素粒子知覚人たちの中にも、哲学者はいる。この哲学者たちは、その「すべすべ」「ざらざら」「ぬるぬる」した感じが、はたして客観的世界に含まれているのか、それともあくまで主観的なものなのか議論している。

このような哲学者たちについて、僕たちはどう思うだろうか? 僕の直観では、彼らは比較的どうでもいい話をしているように思える。少なくとも、その「すべすべ」「ざらざら」「ぬるぬる」した感じがどのようなものであれ、素粒子知覚人たちが客観的対象と、たぶん電子と陽子の電荷かなにか客観的性質を認識していることに違いはない。この思考実験において、僕たちが素粒子知覚人を理解するには、彼らは「すべすべ」「ざらざら」「ぬるぬる」と感じているが、それは客観的対象・客観的性質についてだ、ということが言えればそれで十分であり、その感じが客観的か主観的かというはそれほど独立して考えるべき問題であるようには、僕には思えない。


この思考実験にひねりを加えてみよう(これはパトナムを少し参考にしている)。

素粒子知覚人たちの哲学者たちは、逆転スペクトル人の思考実験の彼らなりのバリエーションをひねり出した。彼らのいうところでは、彼らの中の「普通」の人は電子について「ざらざら」した感じを受け、陽子については「ぬるぬる」した感じを受けるが、一部の人々はそれが逆転している可能性がある、という。つまり、その一部の人々は電子について(「普通」の人のいう)「ぬるぬる」した感じを受けているがそれを「ざらざらしている」と報告するのだと学習しており、したがって「ざらざらしている」と報告している。陽子についても同様。

素粒子知覚人の哲学者たちがこの逆転クオリア思考実験について取り組んでいたところ、素粒子知覚人の脳神経学者たちは、次のようなことを実証した; 逆転クオリア思考実験は正しい。たしかにそのように逆転した人々が存在する。

このことについて、彼らの哲学者ではなく、僕たちはどう考えるべきだろうか? 僕の直観では、これは非常に興味深い報告だが、素粒子知覚人たちが知覚している対象が客観的対象・客観的性質であることについては影響を与えず、この逆転クオリア実証がカルテジアン劇場だとか、心の随伴現象説だとか、ましてや心身二元論だとかいった議論を支持するようには思えない(素粒子知覚人の哲学者たちは、そういったことを論じそうだが)。素粒子知覚人の一部は素粒子を他の人々と違ったように感じている、ということはいえるが、それでも彼らが知覚している対象は客観的対象であり、客観的性質であるということになると思われる。彼らもまた、電子、陽子、中性子を識別して、数えることができるのだから。

この直観から、さらに次のようなことが引き出される。僕たち地球人にとっても、逆転スペクトル人の思考実験は、知覚の対象が客観的対象・客観的性質であることを妨げるものではない。


さらにもう一つ、思考実験にひねりを加えよう(これはサールを少し参考にしている)。

素粒子知覚人の脳神経学者たちの研究はすすみ、仲間の工学者たちと次のような装置を開発した; 生物学的に素粒子知覚人である人たちの一部は、生得的な疾患や事故による損傷で素粒子の位置を知覚することができない。学者たちは、ある電子的な装置を開発し、その装置をその疾患者の神経網に接続することによって、彼らを「治療」することが、つまり素粒子識別と位置の知覚をすることができるようにした。

その装置には「普通」の人バージョンと、逆転バージョンがあり、その装置を取り替えることによって電子を「ざらざら」感じるか、「ぬるぬる」感じるか切り替えることができる(事故によって損傷し、装置によって回復した人々が適切な報告をすることによって、このことは分かっている)。

さて、素粒子知覚人の哲学者たちは、あらたな議論を持ち出した。この「治療」された素粒子知覚人たちが知覚しているのは、素粒子の位置そのものなのだろうか? それとも、この装置の出力なのだろうか? 彼らの精神が直接に知覚しているのはどちらなのか? そして、その「治療」された人々だけではなく、生まれつきの神経網によって知覚している人々の場合にも、直接に知覚しているのは素粒子の位置そのものか、あるいは神経網の出力か?

このことについて、僕たちはどう考えるべきだろうか? 正直なところ、僕の直観はこれに答えをだせない。というか、ここに何か認識論的な問題がある、ということに納得できない。

僕たちは、この素粒子知覚人の思考実験の最後のバージョンにおいて、素粒子知覚人がどういった存在者(いきもの)であるのか、十分に理解しているように思える*1。そして、その理解がある以上、彼らが「直接に」知覚しているのが、素粒子の位置そのものなのか、神経網の出力なのかという問題における「直接に」という考えに、どのような重要な意味があるのか、僕には分からない。彼らは、素粒子の位置を神経網の出力を通して知覚しているとはいえるし、それを「間接的」といいたければ言っても構わないが、いずれにせよ彼らは結局は素粒子の位置それ自体を正確に知っている。


この思考実験によって引き出された直観は、クオリアと呼ばれる現象的性質、逆転スペクトル人の思考実験、知覚が神経網によって制御されているという生理学的知見のいずれも、哲学的認識論として、カルテジアン劇場、心の随伴現象説、心身二元論といった議論を支持するものではなく、僕たちが知覚している対象は客観的対象・客観的性質であることを妨げない、ということだろう。

そして、僕にはこれは正しい直観であるように思える。

*1:もちろん、その生理的な詳細などについてはさっぱりだが、哲学が認識論的に問題にするかぎりでは十分に。

SFネタ

いまとっさに思いつく限り、SFネタを書き並べてみる。順番・重複は、あまり厳密に考えていない。

  • 人間
    • サイボーグ
    • ナノマシンによる能力強化
    • デザインベイビー
    • 超能力
    • 人類の進化
      • 精神融合
  • 基幹技術
    • コンピュータ
      • 生活のすべてを監視しているようなマザーコンピュータ
      • 未来を託宣するようなコンピュータ
    • 超光速通信
    • 超光速移動/瞬間移動
    • ナノマシン
    • サイバースペース
  • 生命体・知性体
  • 地球外生命体
    • 地球人的な宇宙人
    • 昆虫的社会の個の意識のない/薄い宇宙人
    • 星一つとかの巨大な宇宙人
    • 宇宙怪獣
  • 人工知能
  • 仮想現実内の生命体/知性体
  • ネアンデルタール人など現生人類以外の「ヒト」
  • 移動・乗り物
    • 反重力技術(慣性操作技術?)
    • 歩行型の乗り物
    • 超高速移動・瞬間移動・ワープ
      • ゲート型
      • 任意型
  • 兵器
    • 宇宙空間からの巨大質量
      • 隕石落し
      • コロニー落し
    • 巨大ロボット
    • 巨大な大砲
    • レーザー兵器
    • レールガン

 ダメット『思想と実在』

マイケル・ダメット『思想と実在』*1を読んだ。

実在論者は、任意の言明についてその意義をわれわれが把握することは、その言明が真であるということがいかなることであるかの知識に存すると信じている。正当化主義者にとって、言明の意義の把握は、それがいかにして真と認識されうるかにある。

148項

もちろん、ダメットは後者の正当化主義者の立場に立ち、(この文脈で言う)実在論者を批判している。そして、ダメットが実在論者のどこがおかしいと考えているかといえば:

すなわち、その述語がある対象についてあてはまるということがどのようなことであるかの知識からなる。この知識は、何ごとかをなる仕方についての知識として説明されえず、中間的な種類の知識としてすら説明されえない。それは救いがたいほどの命題的な知−いやしくもその知識をもつとすれば、それを表現できるということによってしかもちえない理論的知識−である。循環性が生ずるのはここからなのである。

96項

ダメットもこの本のどこかで書いていて、デイヴィドソンにも共通している「やり口」なのだけど、知識を持つとはどういうことか信念を持つとはどういうことか言葉を理解するとはどういうことか、といった問いについて、少なくとも、しばしば一人称的な見方をせず、三人称的な問い方をする。つまり、私がある人にその人はこれこれの知識(あるいは信念や理解)を持っているということを帰属させるのはどのようによってか? という問いを立てる。

そして、ダメットによれば、「救いがたいほどの命題的な知」を他人に有効に(?)帰属させることはできないはずなのだ。これがなぜなのかは、僕にはまだちょっと分からない。

たぶん、大雑把には、人がある文を主張していて、その帰結としていくつものもっともらしい文を、またその根拠としていくつものもっともらしい文を並べ立てたとしても、それによって分かるのはせいぜいその人がそれらの文の関係・構造をどのように把握しているかであって、それだけではその人が実際に何を考えているのかは分からない*2、ということにその批判の根拠はあるのだと思う。これに表出論証や分子的言語観を組み合わせて、裏打ちするのがダメットの議論なのだろう。


ただ、ダメットはこの本でも、また、この本の序文で本人によってはっきりと述べられているところによれば『真理と過去』*3でも、真であるような命題ないしは文のクラスを実在論者に譲歩するような形で拡大して、正当化主義を修正している。

実際のところ、実在論とダメットの正当化主義のそれぞれが認める、真であるような命題ないしは文のクラスがどれほど違うのかはわからない。たぶん、無限の対象に量化された全称命題については意見が異なるのだろうけど、むしろ、それだけなのではなかろうかと思える。

しかし、それだと、真になりうる命題はこの物理世界についての命題のみだと実在論者が考え、そして実在論者がこの物理世界に無限の対象など存在しないと考えるならば、真であるような命題ないしは文のクラスに違いはないということになるのではないだろうか? もっとも、この可能世界のそのような偶然的性質は形而上学において顧慮されるべきではない、といえるのかもしれないが。

*1:

思想と実在 (現代哲学への招待―Great Works)

思想と実在 (現代哲学への招待―Great Works)

*2:純粋に数学的な真理、あるいは論理的な真理は例外?

*3:これ自体はまだ読んでいない