『神は悪の問題に答えられるか―神義論をめぐる五つの答え』
- 作者: スティーブン・T.デイヴィス,Stephen T. Davis,本多峰子
- 出版社/メーカー: 教文舘
- 発売日: 2002/07
- メディア: 単行本
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五人のキリスト教信仰*1を持っている哲学者と神学者が、悪の問題についての彼らなりの答えを論述し、ディベート形式で相互に批判と再反論を行う。悪の問題とは、キリスト教への反駁として持ち出される次のような議論だ*2:
- 神は全能である
- 神は完全に善である
- 悪が存在する
1〜3の命題がすべて成立することはないが、3が成立しているので、1か2が成立していない。
ここでいう「悪」とは、窃盗、殺人などの人間が行う「道徳的悪」だけに限らない。地震、土砂崩れなどの災害、どうしようもない疾患などの「自然的悪」も含む。つまり、ここでいう「悪」とは、人間が出会う悲惨な出来事や苦痛全般を指す。
もし、神が完全に善であるならば、そのような事態を避けようとするだろう。そして、神が全能であれば、実際にそのような事態を避けることができるはずである。しかし、そのような悪がこの世に存在することは確かである。よって、全知全能で完全に善であるような神など存在しない。
僕は、これが完全に論理的な議論だとは思わない。そして、有神論の立場から1〜3が同時に成立するとする、きわめて伝統的な回答が存在すると思っている。しかし、そこで僕が念頭においている回答は、僕自身の、そしてたぶん現代の先進諸国の多くの人々の道徳的直観に反する(後述)。
つまり、悪の問題とは、答えようはいくらでもあるのだが、その答えかたによってその人─クリスチャンであろうとなかろうと─が神や道徳についてどのように考えているのか分かってくる、という問いなのだ*3。
ところで、先ほど僕がふれた「有神論の立場から1〜3が同時に成立するとする、きわめて伝統的な回答」とは、人類の、あるいは民族の集団的な責任というものを非常に強く主張する; つまり、神がある人の信仰を試すために、あるいは制裁を加えるために、その人の子ども─その子ども自身は個人的には試されてもいないし、個人的には何の罪も犯していない─を殺しても、神の善性は傷つかない、なぜならその子どもも人類の一員、あるいは民族の一員として集団的責任を負っているから、というものだ。これこそ、旧約聖書(とくにダビデとバト・シェバの物語や「ヨブ記」)で示唆されている回答だと思うし、アウグスティヌスもそれに近いところにいるのではないかと思う。
しかし、この本の五人のうち、誰もこの答えをとらない。人類の一員としての集団的責任という考え自体はいくらかの説得力があるかもしれないが、例えば、先天性疾患で苦しんで死んでいく嬰児をみながら「これこそ正義」とはなかなかいえない、というのが、僕たち現代人の道徳感覚なのであり、彼らもそれを共有しているということなのだろう。
彼らは皆、最終的に何らかの形でキリスト教信仰を擁護する。つまり、この本には、キリスト教信仰は結局のところ擁護不能であり、破棄すべしとする論者は含まれていない。他方、『破綻した神キリスト』*4のバート・D・アーマンは、熱心なキリスト教徒であったが、この悪の問題についてキリスト教信仰は擁護不能との結論に達して、棄教した。併読おすすめ。