ダメット『思想と実在』

マイケル・ダメット『思想と実在』*1を読んだ。

実在論者は、任意の言明についてその意義をわれわれが把握することは、その言明が真であるということがいかなることであるかの知識に存すると信じている。正当化主義者にとって、言明の意義の把握は、それがいかにして真と認識されうるかにある。

148項

もちろん、ダメットは後者の正当化主義者の立場に立ち、(この文脈で言う)実在論者を批判している。そして、ダメットが実在論者のどこがおかしいと考えているかといえば:

すなわち、その述語がある対象についてあてはまるということがどのようなことであるかの知識からなる。この知識は、何ごとかをなる仕方についての知識として説明されえず、中間的な種類の知識としてすら説明されえない。それは救いがたいほどの命題的な知−いやしくもその知識をもつとすれば、それを表現できるということによってしかもちえない理論的知識−である。循環性が生ずるのはここからなのである。

96項

ダメットもこの本のどこかで書いていて、デイヴィドソンにも共通している「やり口」なのだけど、知識を持つとはどういうことか信念を持つとはどういうことか言葉を理解するとはどういうことか、といった問いについて、少なくとも、しばしば一人称的な見方をせず、三人称的な問い方をする。つまり、私がある人にその人はこれこれの知識(あるいは信念や理解)を持っているということを帰属させるのはどのようによってか? という問いを立てる。

そして、ダメットによれば、「救いがたいほどの命題的な知」を他人に有効に(?)帰属させることはできないはずなのだ。これがなぜなのかは、僕にはまだちょっと分からない。

たぶん、大雑把には、人がある文を主張していて、その帰結としていくつものもっともらしい文を、またその根拠としていくつものもっともらしい文を並べ立てたとしても、それによって分かるのはせいぜいその人がそれらの文の関係・構造をどのように把握しているかであって、それだけではその人が実際に何を考えているのかは分からない*2、ということにその批判の根拠はあるのだと思う。これに表出論証や分子的言語観を組み合わせて、裏打ちするのがダメットの議論なのだろう。


ただ、ダメットはこの本でも、また、この本の序文で本人によってはっきりと述べられているところによれば『真理と過去』*3でも、真であるような命題ないしは文のクラスを実在論者に譲歩するような形で拡大して、正当化主義を修正している。

実際のところ、実在論とダメットの正当化主義のそれぞれが認める、真であるような命題ないしは文のクラスがどれほど違うのかはわからない。たぶん、無限の対象に量化された全称命題については意見が異なるのだろうけど、むしろ、それだけなのではなかろうかと思える。

しかし、それだと、真になりうる命題はこの物理世界についての命題のみだと実在論者が考え、そして実在論者がこの物理世界に無限の対象など存在しないと考えるならば、真であるような命題ないしは文のクラスに違いはないということになるのではないだろうか? もっとも、この可能世界のそのような偶然的性質は形而上学において顧慮されるべきではない、といえるのかもしれないが。

*1:

思想と実在 (現代哲学への招待―Great Works)

思想と実在 (現代哲学への招待―Great Works)

*2:純粋に数学的な真理、あるいは論理的な真理は例外?

*3:これ自体はまだ読んでいない