ポルノ反対論・擁護論

ポルノ反対論、擁護論について勉強してみようと、書籍をいくつか読んだ。

  • ポルノ反対論・規制論
    • ポルノグラフィ 「平等権」と「表現の自由」の間で - 反ポルノ運動で影響力がある法学者キャサリン・マッキノンの著作。(1)製作過程での性暴力、(2)性暴力の誘発、という二点からポルノの害悪を説いているが、(3)ポルノの頒布それ自体が女性という集団への侮辱である、という議論もあるようで、それを独立した害悪ととらえているのかどうかよく分からない。なお、マッキノンたちが主張している法制度が民事上のものであるという点で、ポルノ「規制論」と呼ぶのはいくらかミスリーディングだけど、カナダの刑法による規制も好意的に紹介しているのであくまで民事上のものであるというに強い原理的なこだわりはないのだろうということと、「規制論」以外にうまい表現が思いつかないことから、民事上の制度も含めてそう位置づけることにする。
    • キャサリン・マッキノンと語る―ポルノグラフィと売買春 - ポルノ・買春問題研究会APP研)が、前述のマッキノンのインタビュー*1と自分たちの立場の論述をコンパクトにまとめた本。論述部分はマッキノンの立場を下敷きにしているけども、完全に同じというわけではないかもしれない。なお、96-97項のグラフの扱いには大いに疑問がある。
    • ポルノグラフィと性暴力―新たな法規制を求めて (福島大学叢書新シリーズ) - APP研と関わりのある日本の法学者の著作。こちらもマッキノンの立場に非常に近いが、まったく同じというわけではない。ポルノ製作過程での被害の説明が長く、かなり具体的。マッキノンたちの「反ポルノグラフィ公民権条例」の日本語訳がついており、この条例の実現、波及、裁判による違憲判決のストーリーも詳しい。
    • インターコース―性的行為の政治学 - マッキノンとも協力し、同様に反ポルノ運動の代表者として有名なドウォーキンの著作。ただ、僕がチョイスを誤った。この本は「男女間セックスにおける女性差別」への批判であって、ポルノ反対論とか、規制論とかいうのは(とくに後者)、明示的には前面に出てきていない。
  • ポルノ擁護論・規制反対論
    • ポルノグラフィ防衛論 アメリカのセクハラ攻撃・ポルノ規制の危険性 - まさに「ポルノ擁護論・規制反対論」と呼ぶべき本。分量も多く、(少なくとも米国における)擁護論・規制反対論の論点を網羅しているのではないかと思われる。ただ、マッキノンとドウォーキンへの個人的批判がやたらと多く、しかもその内容が不公正といわざるを得ないところがある。なので内容豊富だけど、ある程度割り引いて考える必要がありそう。
    • 女はポルノを読む―女性の性欲とフェミニズム (青弓社ライブラリー) - フェミニストの立場から、レディコミとハードなBLという女性向けポルノを分析した書籍。明示的スタンスとしては「従来のポルノ批判に批判的な立場からのポルノ分析」といったところだけど、実質的にはポルノ「擁護論」にまで踏み込んでいるといってよいと思う。ただし、法的な「規制反対論」にまではいたっていない。

全体的なコメント

僕はポルノ規制賛成派ではないけれど、今回いくつか読んだ中では、ポルノ反対論・規制論側の中里見博『ポルノグラフィと性暴力』がもっともよく整理されており、論旨もかなり明解で、理解しやすい。また、疑問がないわけではないけれども、ポルノ擁護論・規制反対論への反論もそれなりに丁寧で誠実な印象を受ける。

それに対して、ポルノ擁護論・規制反対論のナディーン・ストロッセン『ポルノグラフィ防衛論』は、前述のように、割り引かざるをえないところがある。


読んで面白かったという点では、守如子『女はポルノを読む』がもっとも面白かった。マンガにおけるモノローグとして示される文章の数量的分析というアイデアはものすごく興味深く、なるほどと思わされる*2

ただ、レディコミやハードなBLの読者が女であることについての懐疑論への反論を、読者アンケートの自己申告と「アンケートは手書きなので、それらの筆跡や文体を見る限りで判断すると…」(98-99項)という形で行っている。しかし、その懐疑論がもっともなものだとすると(僕はそもそもこの懐疑論がそんなにもっともなものだと思っていないけど)、この反論はいかにも弱い。これはむしろ、コンビニや書店という流通業者が商品購入者の属性という形で情報を持っているのではないだろうか*3

ポルノの定義

今回読んだポルノ反対論・規制論はほとんど全てほぼマッキノンの立場を踏まえているけど、いろいろと疑問がある。

まず、マッキノンが深く関与した反ポルノグラフィ公民権条例は、原文ではポルノグラフィを次のように定義している:

"Pornography" means the graphic sexually explicit subordination of women through pictures and/or words that also includes one or more of the following: ...

http://www.nostatusquo.com/ACLU/dworkin/other/ordinance/newday/AppD.htm

これが、柿木和代(訳)『ポルノグラフィ 「平等権」と「表現の自由」の間で』では「写真や言葉の両方または片方を通じて、女性を性的に支配している状態を描いたもので、さらに次のうちの一つ以上を含んだものである。…」(原注、第一章(32))、中里見博『ポルノグラフィと性暴力』では「図画および/または文章をつうじて、写実的かつ性的に露骨なかたちで女性を従属させることであり、次の要素の一つ以上を含むものである。…」(233項)と訳されている。微妙な違いは他にもあるけど、根幹的なところとして、「the ... subordination」を前者は「支配している状態を描いたもの」つまり事物として訳しており、後者は「従属させること」つまり行為として訳している。

僕の結論としてはこれは事物として訳すほうがベターだと思うけど*4、この混乱は、マッキノンの議論自体に由来するように思える。


『ポルノグラフィ 「平等権」と「表現の自由」の間で』のなかで、マッキノンは「ポルノグラフィは行為である」との考えを前提にしているように見える箇所がある:

このようなアプローチがあるなかで、「ポルノグラフィは女性への攻撃行為である」と主張することは、比喩的、魔術的、言葉の遊び、非現実的、または文字どおりの誇張であるか、あるいはプロパガンダと見られてしまう。


『ポルノグラフィ 「平等権」と「表現の自由」の間で』28項

マッキノンはここの「このようなアプローチ」に批判的で、「ポルノグラフィは女性への攻撃行為である」と主張することは「比喩的、魔術的…プロパガンダ」ではない、つまりポルノグラフィとは行為なのだ、と前提していると考えるのが自然だろう。前後の文脈からも、まさか、「はい、じつは魔術的比喩のプロパガンダなんです」という複雑なジョークとは思えない。

しかし、他の部分では、マッキノンは明らかに「ポルノグラフィ」を行為ではなく事物を指す言葉として使用している:

部屋の隅の棚に載せてあるポルノグラフィが自分で飛び降りてきて女性を襲うのではない。理屈の上では、女性は、おとなしくカバーに包まれたままのポルノグラフィが山積みされた倉庫の側を、きわめて安全に通り過ぎることができる。問題なのはポルノグラフィ制作の過程であり、その使用によって何が起こるかなのである。


同書33項

行為は、部屋の隅の棚に載せることも、倉庫に山積みすることも、制作することもできない、比喩や誇張でなければ。


いろいろ考えたが、(翻訳の問題でなければ)マッキノンの議論は混乱しているか、ひどく読者をミスリードするレトリックを使っていると考えざるをえない。

マッキノンに好意的に考えれば、この行為と事物の間の混乱をきたしているのは、べつにマッキノンだけではなく、マッキノンの反対論者も同様だと考えることはできるかもしれない。例えば、「ポルノグラフィは言論だ」「ポルノも表現だ」という主張があれば、そこでの「言論」「表現」が行為を指しているのか、事物を指しているのか曖昧で、そう主張する人は混乱しているのかもしれない。

そして、「ポルノグラフィは言論だ」という主張に対して、それとパラレルになるような表現として、マッキノンは「ポルノグラフィは行為だ」という表現を使っているのだと思われるから、マッキノンだけに責任があるというわけではないかもしれない。

しかし、そうだとしても、それは混乱した反対論者の主張に、混乱した反論をしている、ということになるだろう。

ポルノと性暴力の因果関係

マッキノンの議論は、ポルノと性暴力の因果関係の心理的カニズムの説明の点においても、混乱している、矛盾しているとまでは言いきれないものの、好意的にいっても、かなり複雑で見通しの悪いものになっている。

まず、次の箇所でポルノが男たちを「駆り立てる」とマッキノンははっきりと主張する:

ポルノグラフィの中の思想が女性を襲うのではなく、男性が襲うのであり、ポルノグラフィによって作られ、変えられ、駆り立てられた男たちが襲うのである。


同書32項

しかし、すぐ後で述べられることは、「駆り立てる」というにはかなり弱い:

これは強かん犯がポルノグラフィの思想によって説得されたわけでもなく、もちろん感情にあおられたわけでもなく、かといって概念的にあるいは感情的に駆り立てられたわけでもない。そうではなくて、映像や言葉を性的刺激剤として使うことにより、無意識にかつ原始的な形ですりこみが行われ、そこから得られてる性的興奮に慣れてしまったためなのである。


同書33項


次のような記述もある:

しかし強かん犯はポルノグラフィによって、被害者が不同意であることを認識できなくなるので、これでは不十分である。これで分かるように、ポルノグラフィは「暴力と強かん、暴力と性行為の違いの分からない人間」を作り出している。


同書123項

しかし、マッキノンは次のようにも書いている:

ポルノグラフィを見る人はやがては、なんらかの形で、それを三次元の世界で実行したくなるのだ。やがては、なんらかの形で彼らは「やる」のだ。そうさせられるのだ。それが可能だと感じたとき、そのために罰せられないと感じたとき、実際にやるのだ。


同書36項

もし、被害者が不同意であることを認識できなくなるのであれば、そのような認知能力の欠損に陥ったポルノ使用者には「そのために罰せられないと感じたとき」という制約は機能しないだろう。


ここまでの引用も含めて、マッキノンはポルノ使用による心理的影響は、無意識的なものだと議論しているように見える:

映像や言葉によって無意識な心理介入や肉体の操作が行われ、特にその結果として攻撃やその他の差別行動となった場合、修正第一条はそのような心理介入や肉体操作をどこまで保証するかを問うているのである。


同書33-34項

しかし、マッキノンが心理的影響の具体例として挙げるものは、どちらかといえば意識的なものだ:

こういう点について、最近レイプ・ポルノや殺人映画の愛好者である犯人でなければ言えないようなことが正直に述べられたのを読んだ。「エロ本や風俗ショウを見ているうちにムズムズしてきて誰かを強かんしたくなる。マスターベーションをして『いく』までレイプのこと、今までレイプしてきた女のことを考えながら、自分がどんなに興奮したかを思い出すんだ。苦痛でひきつった女たちの顔を思い浮かべるとスリルでゾクゾクしてくる」。


同書36項

第一に、彼はこの報告の時点で、ポルノと自分の性犯罪の因果関係をはっきりと意識している。第二に、彼の報告が正しいものであれば、彼はその犯行当時においても、ポルノによる自分の欲求の喚起について、意識的・自覚的であったように見える。加えて、この例は、「被害者が不同意であることを認識できなくなる」というマッキノンの主張に疑問をいだかせる。


べつに、ポルノが使用者に与える心理的影響が一種類でなくてはならないわけではない。また、意識的か、無意識的かというが決定的に重要な論点であるわけではない*5。しかし、マッキノン自身がポルノの影響の心理的カニズムとして力説している内容は、よくいってもバラバラであって、全体のピースとして組み上げるためのヒントは存在しないように思える。


たぶん、マッキノンは、ポルノの影響が「意識的」なものであるとされた場合、それが言論媒体として「言論の自由市場」において反論されるべきものであるように議論が展開することを警戒しているのだと思う。83-84項の議論に、それに近い態度が見える。

ポルノの影響が「言論の自由市場」における反論、擁護、再反論によって是正されているようなものではない、という結論については、理解はできる。部分的には賛成もする。「慣れる」という影響はたしかにあるだろうし、それは反論によって「是正」されることはないだろう。

しかし、これは意識的、無意識的という区別とは別物だと思われる。

*1:質問者が一定していないので「インタビュー」というより「質疑応答」といったほうが正確かもしれない。

*2:台詞とモノローグのマンガ表現上の違いを説明するために出された、台詞の通常の吹き出しの例には苦笑したが(141項)。

*3:ハードなBLやレディコミがどれだけコンビ二で扱われているか僕はよく知らないが、扱われている分については、コンビ二はレジで処理するときに購入者の性別も入力しているので、その統計を持っているだろう。書店がそういうレジ処理時の性別入力をしているかどうか知らないが、少なくとも店員の証言という程度の情報は得られると思われる。

*4:中里見は141項で行為として訳した理由を説明しており、そこで強調したいことは理解はできるものの、結局、事物なのか行為なのかという点においては説得的だと思えない。中里見自身も、自らが使用する「ポルノグラフィ」の定義としては、「性的に露骨で、かつ女性を従属的・差別的・見世物的に描き、現に女性に被害を与えている表現物」としている。

*5:少なくとも、僕は決定的ではないと考える。しかし、マッキノンはそう考えないのかもしれない。