素粒子知覚人の思考実験

さきほど、心の哲学、認識論、現象的意識に関わる思考実験を思いついた。たぶん、このような思考実験の先行する文献はないものと思う。


次のような人々を考えてみよう。彼らは、電子、陽子、中性子の位置を正確に直接知覚することができる(ここでは、電子・陽子・中性子をあくまで正確な位置や運動を持つ素粒子として考えるけど、たぶん、量子論的に拡張することもできるだろう)。彼らは、少なくとも自分の体から数十メートルの範囲の電子、陽子、中性子のどれについてもそこにあると知覚することができ、目の前のコーヒーカップにどの素粒子がいくつどのように含まれているのか直ちに理解することができる。また、彼らは、中性子については「すべすべ」、電子については「ざらざら」、陽子については「ぬるぬる」した感じがするという報告をする。

さて、この素粒子知覚人たちの中にも、哲学者はいる。この哲学者たちは、その「すべすべ」「ざらざら」「ぬるぬる」した感じが、はたして客観的世界に含まれているのか、それともあくまで主観的なものなのか議論している。

このような哲学者たちについて、僕たちはどう思うだろうか? 僕の直観では、彼らは比較的どうでもいい話をしているように思える。少なくとも、その「すべすべ」「ざらざら」「ぬるぬる」した感じがどのようなものであれ、素粒子知覚人たちが客観的対象と、たぶん電子と陽子の電荷かなにか客観的性質を認識していることに違いはない。この思考実験において、僕たちが素粒子知覚人を理解するには、彼らは「すべすべ」「ざらざら」「ぬるぬる」と感じているが、それは客観的対象・客観的性質についてだ、ということが言えればそれで十分であり、その感じが客観的か主観的かというはそれほど独立して考えるべき問題であるようには、僕には思えない。


この思考実験にひねりを加えてみよう(これはパトナムを少し参考にしている)。

素粒子知覚人たちの哲学者たちは、逆転スペクトル人の思考実験の彼らなりのバリエーションをひねり出した。彼らのいうところでは、彼らの中の「普通」の人は電子について「ざらざら」した感じを受け、陽子については「ぬるぬる」した感じを受けるが、一部の人々はそれが逆転している可能性がある、という。つまり、その一部の人々は電子について(「普通」の人のいう)「ぬるぬる」した感じを受けているがそれを「ざらざらしている」と報告するのだと学習しており、したがって「ざらざらしている」と報告している。陽子についても同様。

素粒子知覚人の哲学者たちがこの逆転クオリア思考実験について取り組んでいたところ、素粒子知覚人の脳神経学者たちは、次のようなことを実証した; 逆転クオリア思考実験は正しい。たしかにそのように逆転した人々が存在する。

このことについて、彼らの哲学者ではなく、僕たちはどう考えるべきだろうか? 僕の直観では、これは非常に興味深い報告だが、素粒子知覚人たちが知覚している対象が客観的対象・客観的性質であることについては影響を与えず、この逆転クオリア実証がカルテジアン劇場だとか、心の随伴現象説だとか、ましてや心身二元論だとかいった議論を支持するようには思えない(素粒子知覚人の哲学者たちは、そういったことを論じそうだが)。素粒子知覚人の一部は素粒子を他の人々と違ったように感じている、ということはいえるが、それでも彼らが知覚している対象は客観的対象であり、客観的性質であるということになると思われる。彼らもまた、電子、陽子、中性子を識別して、数えることができるのだから。

この直観から、さらに次のようなことが引き出される。僕たち地球人にとっても、逆転スペクトル人の思考実験は、知覚の対象が客観的対象・客観的性質であることを妨げるものではない。


さらにもう一つ、思考実験にひねりを加えよう(これはサールを少し参考にしている)。

素粒子知覚人の脳神経学者たちの研究はすすみ、仲間の工学者たちと次のような装置を開発した; 生物学的に素粒子知覚人である人たちの一部は、生得的な疾患や事故による損傷で素粒子の位置を知覚することができない。学者たちは、ある電子的な装置を開発し、その装置をその疾患者の神経網に接続することによって、彼らを「治療」することが、つまり素粒子識別と位置の知覚をすることができるようにした。

その装置には「普通」の人バージョンと、逆転バージョンがあり、その装置を取り替えることによって電子を「ざらざら」感じるか、「ぬるぬる」感じるか切り替えることができる(事故によって損傷し、装置によって回復した人々が適切な報告をすることによって、このことは分かっている)。

さて、素粒子知覚人の哲学者たちは、あらたな議論を持ち出した。この「治療」された素粒子知覚人たちが知覚しているのは、素粒子の位置そのものなのだろうか? それとも、この装置の出力なのだろうか? 彼らの精神が直接に知覚しているのはどちらなのか? そして、その「治療」された人々だけではなく、生まれつきの神経網によって知覚している人々の場合にも、直接に知覚しているのは素粒子の位置そのものか、あるいは神経網の出力か?

このことについて、僕たちはどう考えるべきだろうか? 正直なところ、僕の直観はこれに答えをだせない。というか、ここに何か認識論的な問題がある、ということに納得できない。

僕たちは、この素粒子知覚人の思考実験の最後のバージョンにおいて、素粒子知覚人がどういった存在者(いきもの)であるのか、十分に理解しているように思える*1。そして、その理解がある以上、彼らが「直接に」知覚しているのが、素粒子の位置そのものなのか、神経網の出力なのかという問題における「直接に」という考えに、どのような重要な意味があるのか、僕には分からない。彼らは、素粒子の位置を神経網の出力を通して知覚しているとはいえるし、それを「間接的」といいたければ言っても構わないが、いずれにせよ彼らは結局は素粒子の位置それ自体を正確に知っている。


この思考実験によって引き出された直観は、クオリアと呼ばれる現象的性質、逆転スペクトル人の思考実験、知覚が神経網によって制御されているという生理学的知見のいずれも、哲学的認識論として、カルテジアン劇場、心の随伴現象説、心身二元論といった議論を支持するものではなく、僕たちが知覚している対象は客観的対象・客観的性質であることを妨げない、ということだろう。

そして、僕にはこれは正しい直観であるように思える。

*1:もちろん、その生理的な詳細などについてはさっぱりだが、哲学が認識論的に問題にするかぎりでは十分に。