ソドムの客人

リチャード・ドーキンスの『神は妄想である』(日本語訳349〜350項)で、ロトがソドムから脱出する直前の経緯において、娘二人を暴徒に差し出そうとした物語が取り上げられる。ドーキンスは、この物語(神話)のこの部分について「この奇妙な物語がほかにどんな意味をもつにせよ、史書に描かれた著しく宗教的な文化において、女性に払われる敬意について何事かを語っていることは確かである」と簡単にコメントしているだけだが、この物語を理解不可能な道徳規範か、あるいは嫌悪すべき道徳規範の例として挙げていると考えて良いだろう。しかし、僕は、このロトの行為を支持しないが、少なくとも理解可能なものだとは思うし、ある意味ではロトのこの行為を善良なものだと理解することさえ可能ではあると思う。

さて、そのロトの物語の一部とは次のようなものである。アブラハムとその甥のロトが生きていた時代。神は、ソドムとゴモラに住む人々を皆殺しにし、その二つの町を滅ぼそうとした。

そのことを神がアブラハムに明かすと、アブラハムは「あの町に正しい者が五十人いるとしても、それでも滅ぼし、その五十人の正しい者のために、町をお赦しにならないのですか」(新共同訳、創世記18.24)と神に問いかけた。神は、正しい者が五十人いるならば赦そう、と答える。アブラハムは、では五十人に五人足りなければ、と問いかけた。神は、四十五人いれば滅ぼさない、と答える。アブラハムは、では四十人では、では三十人では、二十人では、最後に十人では滅ぼすのでしょうか、と問いかける。神はそのたびに、正しい者がそれだけの数いるならば滅ぼさないと答える。

こういった展開があって、二人の御使いがソドムに派遣された。ロトは、彼らを自らの家に迎え入れ、もてなした。しかし、ソドムの住民が退去してロトの家に押しかけ、この二人の客人をなぶりものにするから*1、差し出せ、と要求する。ロトは、この暴徒達の要求を拒絶した。二人の客人に乱暴を働かないでくれ、代わりに、自分には二人の未婚の娘がおり、「皆さんにその娘たちを差し出しますから、好きなようにしてください」(19.8)と。

繰り返しになるが、僕は、このロトの行為を支持しない。しかし、ある前提に注意すれば、理解可能なものだと思うし、ロトを善良な人間だと理解する余地さえあると思う。ロトは、現代人には理解不能な思考をもった古代人ではない(ドーキンスはそう言いたそうだが)。もし、ロトの行動が理解不能なものだと思い、かつなぜ理解可能なものなのか分からないのであれば、すこし考えて欲しい。
その前提とは、その二人の客人は天使だ、ということだ。これは、べつに隠された仮定でもないし、深い読み込みを必要とする解釈でもない。はっきりと、この二人は「御使い」だと書かれている(19.1)。たったそれだけで、その宗教的な文脈において、二人の娘を「好きなようにしてください」と暴徒達に差し出そうとしたロトが、少なくとも結果として、善良な人物であることは説明がつく。

また、ロトが彼らを天使だと知っていたかどうかは明言されていないが、二人の旅人を見ると即座に「立ち上がって迎え、地にひれ伏し」た(19.1)こと、この二人の旅人が神がソドムを滅ぼそうとしていると告げるとまた即座に脱出し始めたことから、たぶん、この二人の旅人を天使ないしは預言者だとロトは知っていた、少なくとも高い可能性として推測していたと解釈することは合理的だろう。そうだとすれば、たんに結果としてだけではなく、ロト自身の一人称的な状況把握・判断・意図としても、その宗教的な文脈において、善良な人物であるということは可能だ。

しかし、僕は、天使の実在を受け入れないので、結局は、ロトの行為を支持しない。

*1:『神は妄想である』によれば、同性間のレイプを行う、ということらしい。