『事実/価値二分法の崩壊』

事実/価値二分法の崩壊 (叢書・ウニベルシタス)

事実/価値二分法の崩壊 (叢書・ウニベルシタス)

この本でパトナムは,「倫理的価値判断は客観的である(正確には「ありえる」)」という主張を擁護する*1。この立場は,「事実の判断は客観的だが,倫理的価値判断は主観的である」という論理実証主義的立場とも,「事実の判断も,倫理的価値判断も文化相対的(≒主観的)である」というローティ的相対主義とも対立するものだ。

  事実判断 (倫理的)価値判断
パトナム 客観的 客観的
論理実証主義 客観的 主観的
ローティ 主観的 主観的

*2

とはいえ,パトナムも,「倫理的価値判断は客観的である」ということを積極的に論証することはできていない*3。そうではなく,ローティ的相対主義については相対主義に対する一般的な批判である「自己論駁的である」という批判を行うとともに*4論理実証主義的立場については価値判断を事実判断と峻別して合理的判断の領域から追い出そうとする試みが失敗するということを示そうとする*5

後者の議論,価値判断を事実判断と峻別への非難が,この本のタイトル『事実/価値二分法の崩壊』となっている。

価値判断を事実判断と峻別への非難も,おそらく二つの批判,ないしは二つのステップに分けることができる。

一つは,「勇気ある」や「残酷な」といった濃い倫理的概念*6を「価値判断的要素」と「事実判断的要素」に要素分解することはできない,とする批判である。「残酷である」ということの「事実判断的要素」を,「残酷」という用語を用いずに(循環的にならずに)定義することができるだろうか? 「勇気ある」ということの「事実判断的要素」は? あるいは,できるかもしれないが,それが当然できるはずだというのは,無根拠な形而上学的想定である。この批判だけで,ある種の価値判断と事実判断の峻別論への独立した批判となる。

もう一つは,事実的判断も「一貫性がある」「シンプルである」「理に適っている」という認知的価値判断*7を基礎にしてはじめて成り立つものである,という批判だ。そして,これは上の批判と組み合わせて,「一貫性がある」「シンプルである」「理に適っている」という濃い認知的価値判断概念*8もまた「価値判断的要素」と「事実判断的要素」に要素分解できない,と主張することで,インパクトを増す。もし,事実的判断が合理的であったり,客観的であったりするならば,それを支える濃い認知的価値判断概念も合理的であったり,客観的であったりしなければならないはずである*9。そして,濃い倫理的概念をそれが価値判断であるからといって合理的・客観的でないと断罪するような議論は,結局,濃い認知的価値判断も断罪することになるだろうし,事実的判断が合理的・客観的でありえることと矛盾するだろう。

(1)「事実判断は主観的(≒あまりに相対的)である」という主張は間違っている,(2)事実的判断が客観的であるならば,濃い認知的価値判断も客観的である,(3)濃い認知的価値判断概念を客観的であるとしながら,濃い倫理的概念を主観的であるとする理由はない。この議論は,説得的だと僕は思う。

しかしながら,濃い倫理的概念が原理的に「価値判断的要素」と「事実判断的要素」に分解可能だという理由がないとしても,逆に不可能だと考える理由もない。また,認知的価値判断と倫理的価値判断を峻別することが不可能だと考える理由はないかもしれない*10。したがって,パトナムの議論だけでは,「倫理的価値判断は客観的である」という主張を,積極的に基礎付けることはできていない。

それでもなお,「倫理的価値判断は主観的である」という主張を積極的に基礎付ける理由がないのならば,ひとまず「倫理的価値判断は客観的である」,という主張を支持しておく,政治的な実践的理由が僕たちにはあると,僕は考えている。倫理的価値判断についての可謬主義だけが現在の民主主義体制や裁判制度を支持することができるのではないかと考えるし,可謬主義は客観主義を前提すると考えるからだ。

デューイは,探求が,科学においてであれ日常生活においてであれ,アルゴリズムないし決定手続きという意味での「規準」を要求する,とは信じないが,われわれが探求の営みから探求一般に関して学んだところのものは存在する,と信じている。〔・・・〕
しかし,探求一般にとって何が有効なことなのか。デューイ主義者たちが力説するところによれば,われわれは,人間の知性を全面的に活用する探求が,「探求の民主化」という言葉で私が言及したような特徴を含めて,ある特徴を持っていなければならない,ということを学んだのである。例えば,知的探求は,ハーバーマス主義者たちが「討議倫理学」と呼んでいるものの原理にしたがうのであって,それは,質問や反論を出すことを遮ったり,仮説の定式化やその仮説に対する他者の批判を妨げたりすることによって,「探求の道を塞ぐ」ようなことはしない。それは,その最高の状態では,位階秩序や依存の関係を回避する。それは,実験が可能なところでは実験を強調し,実験が可能でないところでは,観察および観察の綿密な分析を強調する。


『事実/価値二分法の崩壊』131項

ここでは,「民主的」という政治的なモデルのアナロジーによって,科学的探求と倫理的探求を含む探求一般のモデルが語られている*11

ここに,二つの興味深い点がある。まず,倫理的な意見の対立を政治的な(本来の意味における)民主的手続きによって解決・解消していこうという私たちの政治的実践は,またその点における民主的手続きの尊重は,倫理的価値の非実在論や倫理的判断の主観説のみではなく,倫理的価値の実在論や倫理的判断の客観説によって基礎付けることができるということだ*12。先に書いたように,僕はむしろ,倫理的実在論や倫理的判断の客観説によってこそそのような民主的手続きの実践や尊重が説明でき,逆に非実在論や主観説によっては不可能だと思う。

次に,これは本筋ではないが,よりすぐれた科学的探求のモデルが「民主的」ということであるならば,そのことによって,初等教育の分野では壊滅的に低い成果しか挙げられない米国が,高度な学術先端分野においては圧倒的な優位を誇っていること*13が説明できるかもしれない。「民主的」というのは,米国の国是である*14

*1:道徳の素朴実在論ともいうべきパトナムの主張は,それに自覚的にコミットする少数の人々にとっては,それこそ「普通の人々」の常識を反映した,常識的で説得的な議論である。しかし,実際には「普通の人々」,とくに日本の大多数の人々はその議論を常識的で説得的な議論だとは受け取らないだろう。

*2:図式的には,「事実判断は主観的だが,価値判断は客観的である」という立場も考えられる。

*3:ただ,この点は,別書『存在論抜きの倫理』で論じられているかも。時間を取れれば,次はこれを読む。

*4:僕は,強すぎる相対主義への批判はこれで十分であり,そしてローティの立場はこれを避け得ないほどに強すぎると考えている。

*5:上の表を見れば分かるけど,「倫理的価値判断は客観的である」と積極的に論証できるならば,ローティを自己論駁的であると非難する必要はない。「倫理的価値判断は客観的である」という一点でもって,ローティ的相対主義論理実証主義的立場の両方を一刀のもとで切り伏せることができる。

*6:「善い」「悪い」という事実を記述する側面を(ほとんど?)含まない「薄い倫理的概念」ではなく,「勇気ある」「冷酷な」という事実を記述する側面と倫理的評価を与える側面の両方を含む概念を「濃い倫理的概念」と呼ぶ。例えば,(1)「残酷な」という表現は,倫理的評価の側面を含む。「彼は残酷だ」という説明は,倫理的非難を含んでいる。(2)「残酷な」という表現は,事実的記述の面を含む。いかな悪人・悪行であろうとも,「残酷」とは表現できない悪人・悪行があるだろう。ある種の役人の横領について「確かに彼は悪いやつだけど,『残酷だ』というのは事実に反するよ」と主張することは,理に適っている。

*7:いうなれば「よりよい事実の理解・認識・把握・表現はどうあるべきか?」という価値判断。

*8:これは僕の造語 …のはず

*9:ちなみに,「薄い認知的価値判断」というのはなかなか考えにくいので,「濃い認知的価値判断」というのは過剰修飾であるような気がする。強いて言えば,「合理的」「正当化された」「証明された」「反証された」といった用語だろうか。

*10:この点については,「欺瞞のない」「率直な」というような概念を認知的価値判断と倫理的価値判断の絡み合ったものとして提示しつつ,それゆえに認知的価値判断と倫理的価値判断が異なるカテゴリーに属するという形而上学は受け入れられない,と主張することが可能かもしれない。

*11:なぜか,この本の中でこのあたりは,必要以上に文が複雑で,訳文が練られていないような印象を受ける。原文がそうなのかもしれない。いずれにせよ,「位階秩序や依存の関係を回避する」の意味はよく分からない。社会的権威や人的関係に拘束されないということなのか?

*12:僕は,「倫理的」という表現よりも「道徳的」という表現を好むけど,ここはパトナムに合わせる。

*13:自然科学や数学のみならず,社会科学や哲学でもそうだと私は評価しているが,後者については意見が分かれるだろう。

*14:一般に国是がそうであるように,米国の「民主的」という国是も解釈の幅があり,その国是自体に反対する市民もあり,その国是が完全に実施されているわけでないにせよ。