『昴』と『ピアノの森』

なぜか立て続けに芸術マンガを二つ、既刊全巻(たぶん)読んだ。バレエまんが『昴』とクラシック・ピアノまんが『ピアノの森』。

『昴』はすごく面白いのだけど… 第一期?の最終巻(11巻)は、正直、引いた。もはや、芸術の天才を描くマンガとしては破綻して、超人同士の超能力バトルになっている。しかし、そこが面白い、そうだからこそ面白い、作者のやりたいことが伝わってくる、という面もある。

ピアノの森』は、文句なしに面白い。修平のカイへの友情と憧憬と、たぶん嫉妬ともしかしたら憎悪も含まれた複雑な葛藤と、天真爛漫なカイの修平への純粋な尊敬と友情が、爽やかで美しい情景の中で繰り返しすれ違い、不協和音をきしみたててるのがゾクゾクする。これこそが人間ドラマ。ただ、『ピアノの森』においては、芸術の素晴らしさとは、聴衆に感動*1を喚起するところにあるかのよう描かれている。カイは文句なしに天才であり、修平も超絶的な秀才?ではあるが、彼らの卓抜性は「大衆」に理解され、感動されるところにあるかのように描かれている。

対して、『昴』では、芸術の天才は理解されない、ということが繰り返し描かれている。逆にいえば、「大衆」が感動できようとできまいと、理解できようとできまいと芸術の天才は天才であって、また「大衆」に理解できなくでも至高の芸術は至高の芸術なのである、というテーマが前提されている。

さて、芸術の素晴らしさとは聴衆に感動を与えるところにある、というのが正しいのかどうかいうことは、僕には良く分からない。また、『ピアノの森』は、マンガとしてもちろん十分に面白い。ただ、『昴』で描かれているようないうなれば理解されない芸術家観というのも確かに僕らが持っているものであって、(僕たち自身も理解できない側の「大衆」であることは度外視して)そのような理解されない芸術家像に何か憧れのようなものを持っていることは否定できない。そして、『昴』は、感動させる芸術家像と理解されない芸術家像をいちおう対置させた上で、断固として、主人公に理解されない芸術家の道を歩ませている。

ピアノの森』は、これから、そういった理解されない芸術家をテーマとして展開してくるだろうか。そうしてくれれば、もっと、面白くなると思うのだけど。

*1:あるいはその他の情緒。