法解釈

法解釈とは何か?

それは、(1)法文の日本語として可能なある解釈を示し、(2)その解釈に従うべき理由を与えるものだ。

法学者や裁判官が法解釈論を考えるとき、必ずこの二つのステップにこの順序で従っているというわけではない。また、法解釈を示すときでさえ、この二つのステップにこの順序で従っているわけではない。だから、これは二つのステップであるというよりも、法解釈にかかる二つの制約であると考えるほうが理にかなっているかもしれない。しかし、単純化のために、厳密さを捨てて、(1)(2)をそのような順序で行われる二つのステップとして考えよう。


さて、(1)のステップについて、法文の日本語として可能な解釈の中には、日本語としてより自然なものもあれば、より不自然なものもある。

もちろん、ここでいう「より自然な解釈」であるかどうか、ということに関しては日本語話者の意見は食い違いうる。それは、例えば、整地された敷地の上にコンクリートの土台と鉄筋の枠組みと屋根だけが作られ、まだ人が住むのに適した床や壁がない作りかけの家を「建造物」と呼ぶのが自然かどうかについて、人々の意見が食い違ううるということとほぼ同じことだろう。

しかしながら、日本語の「建造物」という語について、人々の意見が致命的に食い違い、ある解釈がより自然な解釈だとかより不自然な解釈だとかということについて、まったく収束する見込みがない、ということはありえない。もし、そうであれば、僕たちは日本語をコミュニケーションの道具として利用することができない。

だから、論理的に厳密な意味で可能な解釈や不可能な解釈というものがないとしても、より自然な解釈とより不自然な解釈がある。そして、あまりにも不自然であるがゆえに、ある緩やかで日常的な意味で「不可能な」解釈というものもある。

というわけで、(1)のステップは機能する。


では、(2)のステップをどのように考えるべきだろうか? 僕が考えているのは、(2)のステップが、(1)のステップで可能だとされた複数の解釈のうち、たった一つの解釈を選択するような理由を与えうるというものだ。さらには、それにはとどまらず、可能な解釈のうち、AがBよりより自然であっても、なおBの解釈を選択するような理由を与えうるステップだ。そのような理由とは何だろう?

それは、その解釈に従うことがより善いといえるような理由、つまり道徳的な理由だ。一体、他にどのような理由がありえるだろうか?


しかし、第一に、(2)のステップにおいて、道徳的な理由を用いる確実性・安定性について疑問がありえる。なぜなら、僕たちは、道徳的な判断が人によって異なり、これが激しい対立を巻き起こすことがあることを知っているから。

しかし、道徳的な判断がしばしば人々の意見の対立を招くということから、人々の道徳的な判断がまったく無秩序で、意見の収束がみられないということは帰結しない。むしろ、僕たちの日常を観察すれば、僕たちはかなり多くの道徳的意見について、それなりの意見の収束を経験している。

第二に、(2)のステップにおいて、道徳的な理由を用いる正当性について疑問がありえる。というのは、法解釈において、僕たちは法文に従うべきであって、仮に道徳的意見がある程度収束するとしても、法文以外の理由に従うべきではないのではないか、とも思えるからだ。法文以外の理由に従うならば、それはもはや「法解釈」とは呼べないのではないか?

しかし、法文に従うべきことと、法文以外の理由に従うことは、両立しないわけではない。僕が初めに示した構図では、法解釈は、(1)のステップにおいてすでに法文に従っている。そして、それに加えて、(2)のステップにおいて、道徳的な判断にも従っているわけだ。

第三に、「なぜ、法解釈において、僕たちは道徳的な理由に従うべきか?」と問うならば、「なぜ、僕たちは法文に従うべきか?」と問うことも許されるのではないか。そして、その答えは、道徳的な理由以外にはありそうにない。

法文に従う理由が道徳的な理由であるのならば、法文の可能な解釈からよりよい解釈を選択する理由が道徳的なものであって悪いということはないと思う。


第四に、結局のところ、立法者(あるいは立法に関わった全ての人)は、僕たちの法文の解釈において、僕たちの道徳的な判断が介入することを、暗黙に了解せざるをえないように思う。

これは、法文が日本語で書かれているということが、よいアナロジーを提供してくれると思う。立法者は法文を日本語で書いた以上、その法に服従する人々が日本語を利用できるということを前提せざるを得ない。明治時代の立法者は、後の時代の人々に、彼らの日本語がそれなりの同一性を保って継承されていることを前提せざるをえない。

同様に、明治時代の立法者は、後の時代の人々に、彼らの道徳観がそれなりの同一性を保って継承されていることを前提せざるをえない。実際のところ、後の時代の僕たちにとって、立法者の道徳観が全く不可解で、奇妙であるならば、僕たちは、その法文を自分達の法として服従することを放棄するだろう。

このように、立法者は法文を書く以上、日本語が後の時代にそれなり保存されて継承され行くことを期待せざるを得ないのと同様、道徳観もそれなりに保存されて継承されていくことを期待せざるを得ない。

(また、そもそも、僕たちの道徳観が決定的に変化してしまっているとしたら、法文に使われているような言葉の日本語での意味も変化してしまっているに違いないと思う。)


そのため、もし後の時代に日本語が保存されなければ立法者は法の継承に失敗したのであるし、もし後の時代に道徳観が保存されなければ、同様に彼らは法の継承に失敗したのだ。

そして、その失敗がどうしようもなく致命的なものであれば、それがどちらの失敗であれ、僕たちはそれを法文とみなせない。

そして、日本語の継承の失敗が限定的な場合に、つまり法文に書かれている文法が理解しがたいとか、特定の名詞が何を意味しているのかすごく曖昧であるとかという場合に立法者が保存されるだろうと期待したもう一方のものである道徳観に僕らが頼ることは、止むを得ないことであるし、立法者もそれを排除することが可能だと合理的に考えることはできなかっただろう。