『統治と功利』

安藤馨『統治と功利』を読み終わった。難しかったが、面白かった。しかし、著者の構想する統治功利主義には、一つ致命的な問題があるように思う。

著者は、自然主義的な価値実在論をとり、時点主義をとる。つまり、「現実のある瞬間の快楽の総量が、またそれのみが道徳的価値の基礎として実在する」と考える。しかし、相対性理論によれば、同時性というのは相対的なものだ。四次元時空のどの三次元断面を「ある瞬間」と捕らえるかは、特殊相対性理論において観察者の慣性系に依存するから、絶対的な「ある瞬間」などというものは存在しない。よって、時点主義は・・・ 少なくとも自然主義的な価値実在論と結びついた時点主義は、科学と調和することができないのではないか。

そこから少し考えてみたが、これはどちらかといえば、自然主義的な価値実在論の問題というよりも、時点主義の問題だろう。規範的倫理学を合理的に構想しうると考えるならば、それに功利主義的な要素、つまり効用の総和又は分布を問題にする視点は入らざるを得ないように思う。ある人が理由なく子どもを虐待したときに、これが道徳的な問題を全く引き起こさないとか、あるいは子どもが受けた快苦と独立に道徳的判断を下しうるとかいう道徳理論はありえそうにないし、ある政策の成否を考えるのに快苦の分布なり、総量なりに全く道徳的インパクトを認めない道徳理論も受け入れられそうにない。結局、自然主義的な価値実在論をとるか否かはともかくとして、道徳的にインパクトのある実在として快苦を考えることは、メタ倫理学的にそれをどのように位置づけようと、避けがたい。そうすると、カントのような極端な義務論をとらないかぎり、どのような規範的倫理学を構想しようと、先ほどとの特殊相対性理論との衝突から、快苦の計算において時点主義はとれない。

そうであれば、時点主義はとれなし、とる必要もそもそもないように思う。むしろ、僕の道徳的直観としては、歴史主義のほうが妥当なように思う。一時の苦い薬をもって重病を治療することが功利主義的に善なのは、ほぼ自明なのではないか?

安藤は、歴史主義をとれば、どの時点までの歴史を功利計算の対象にするかで恣意が避けがたく、それを避けようとすれば宇宙の終焉までの期間全てを功利計算の対象にせざるをえないことを指摘する。しかし、それで何が悪いのだろう。原理的には宇宙の終焉までの期間全てを功利計算の対象にすべきである、しかし能力に限りのある我々は現実的にそれを完全に計算することができない、よって、現実的にはどの行動選択がもっとも正しいのかという道徳的判断自体が蓋然的にならざるをえない、と考えれば良いのではないか。