ドゥウォーキン批判

ドゥウォーキンの『法の帝国』について、三点、批判する。ただし、勢いで書いているので、『法の帝国』の内容を再確認はしていない。

原理の競合

二つの原理が競合し、競合する原理Aと原理Bを双方とも尊重した結論として、矛盾する二つの結論がでるということがありえる。日本の憲法論でよく問題になる、表現の自由とプレイバシー権の競合を考えてみると良い。表現の自由など尊重する必要はないという論者もいなければ、プレイバシー権など尊重する必要はないという論者もいないだろうが、それでも、結論としては、表現の自由をより尊重してプライバシー侵害に基づく損害賠償請求を認めないという結論もありえるし、プレイバシー権をより尊重してプライバシー侵害に基づく損害賠償請求を認めるという結論もありえる。

こういったとき、ドゥウォーキンは、ひとまずは二つのことしかいわない:

  • 両方の原理を尊重せよ
  • どちらかの原理が一般論として優位に立つ、ということはない

一般論としてどちらの原理が優位に立つということはないのであれば、表現の自由をより尊重すべしとも、プレイバシー権をより尊重すべしとも一般論としてはいえないわけで、個別具体的な事情の下、個別具体的な衡量によってどちらをどれほど尊重するか考えるしかない。しかし、そのような個別具体的な判断だけでは、「唯一の正しい答え」があるなどといえないだろう。

ドゥウォーキンはあまりはっきりと言ってはいなかったと思うが、この問題を解決するためには、競合する原理Aと原理Bを調整するメタ原理αが存在すると考えるほかない*1。そして、メタ原理αと別のメタ原理βは、さらにメタ・メタ原理γを必要とするかもしれない。

道徳的に自然なクラスわけ

ドゥウォーキンは、例えば、堕胎容認派と堕胎禁止派がほぼ半々で議会で激しく争ったとき、「偶数月生まれの女性が堕胎することは容認し、奇数月生まれの女性が堕胎するすることは禁止する」というチェッカーボード的解決は、少なくとも政治的両派の立場を尊重するという意味で公正、つまり、民主主義の点からみて正当化できるが、一貫性(純一性)を欠くので法として好ましくないとする。

しかし、例えば、次のような言語を持つ人々を考えてみよう。彼らは「イタダ」という名詞を持っており、これは私たちの言語でいえば、偶数月生まれの女性が堕胎すること、もしくは奇数月生まれの女性がアイスクリームを食べることを意味している。また、彼らは、「イダタ」という名詞も持っており、偶数月生まれの女性がアイスクリームを食べること、もしくは奇数月生まれの女性が堕胎することを意味している。そして、彼らは、私たちの「堕胎」に直接相当する名詞は持っていない。

さて、ドゥウォーキンが言っていることは、彼らの言語でいえば、「イタダは容認し、イダタは禁止する」というものよりも、「イタダについては、偶数月生まれの女性に対しては禁止し、奇数月生まれの女性に対しては容認する。イダタについては、偶数月生まれの女性に対しては容認し、奇数月生まれの女性に対しては禁止する」としたほうが一貫性がある、ということである。一見して、後者の方が複雑な条件を持つ規範であるにも関わらずである。

ドゥウォーキンはこういった場合に、「なるほど、そのような言語を持つ彼らにとっては、前者のほうが一貫性がある」というだろうか。もし、そうであるならば、どのような規範が一貫性を持つかというのは、その規範を評価する言語によるということになる。では、彼らにとってではなく、私たちにとっても、そのような言語で評価するならば後者の方が一貫性があると言ってなぜいけないのだろうか。

この議論が、奇妙に、あるいは皮相に思えるのは、私たちがたんに「イタダ」「イダタ」という名詞を現に持っていないというだけではないと思う。また、そのような概念を私たちが理解できないというでもないだろう。たぶん、道徳的見地からみて、そのようなクラス分けが恣意的でないものとは思えない、と考えているからだ。つまり、ドゥウォーキンのいう一貫性(純一性)の成否・程度は、私たちがどのようなクラス分けを道徳的に自然なものと考えているかに依存する。

もちろん、こういっただけで、ドゥウォーキンのいう一貫性についての議論が無意味となるわけではない。私たちにとって道徳的に自然なクラス分けというものを尊重すべしというのは荒唐無稽な要求というわけではない。そして、いったんそれを尊重することにすれば、ある政治的問題について、規範aと規範bはそれらの中間的な規範cよりも一貫性があることについては極めて広範で強い合意があるが、規範aと規範bのどちらがより望ましいかについては激しく拮抗した対立があるというはありうるので、そのときに一貫性(純一性)を尊重すべしというのは意味のある主張だ。

しかし、これは、法の構成的解釈によって導き出される原理が、どのようなものでも良いというわけではない、ということは意味している。法の構成的解釈によって導き出される原理は、私たちにとって道徳的に自然なクラス分けに従っていなくてはならず、それがどれほど自然かというのはその原理の説得力に強い影響を及ぼす。

そのため、前の節で述べた、メタ原理α、メタ原理β、メタ・メタ原理γもまた、何か私たちにとって道徳的に自然なクラス分けに従っていなくてはならない。そのような、メタ原理α、メタ原理β、メタ・メタ原理γ… とつづく、無限ではないとしても、どれほど続ければよいのか見当も付かないメタ×n原理の集合が、構成的解釈によって確定できなくては、ドゥウォーキンのいう「唯一の正しい答え」が導き出されることはない。そして、そのなかで私たちは、なんどもどのようなクラス分けが道徳的に自然なのかについて、意見を違えることになるだろう。

ドゥウォーキン自身は、この困難を自覚した上で、このような道徳的に自然なクラス分けにしたがったメタ×n原理の集合が得られることを期待しているように思える。それは、それで一つの立場だと思うし、積極的には反対しない。しかし、僕はこの「道徳的に自然なクラス分け」制約は、かなり激しく法の自立性を損なっているように思う。法の解釈のかなり早い時点で、道徳的直感の援用が暗黙に必要になり、原理の競合が明らかになるにつれ、それはどんどん明示的になっていく。

背理法を認めるべきか

論理学な見地から、古典論理は無矛盾性と完全性をそなえており、直観主義論理は完全性を備えておらず古典論理より弱い論理である。つまり、論理的に「唯一の正しい答え」を得るためには、古典論理を必要とする。しかし、古典論理を必要とするということは、直接的・構成的な証明が不可能である命題について、背理法でもって証明することを認めるということになる。

法的推論において、どこまで背理法を認めるべきだろうか? そして、背理法を用いた証明を、背理法を用いない直接的・構成的な証明と、同等の説得力があると認めるべきだろうか? もし、「唯一の正しい答え」テーゼを法的推論のすべてに適用するならば、背理法をあらゆる場面で認めるべきであるし、背理法を用いた証明は直接的・構成的な証明と同等な説得力を持つと認めるべきである。しかし、それで良いかは自明ではなく、個人的には、法に対するあまりに強い存在論的コミットメントを示唆しており、適法とも不適法とも言いがたい微妙なケースを無視することになるように思う。

*1:原理Aか原理Bをより深く解釈すれば、どちらかに内在的制約があり、そもそも競合することはないのだ、という議論もありえる。しかし、これはドゥウォーキンの立場とは矛盾するし、このような議論をとったところで大きな違いはないだろう。