履行利益と信頼利益

民法の(日本では)講学上の概念として、履行利益(ある契約が有効だったときに得られたはずの利益=逃した利益)と信頼利益(ある契約が有効だと信じたことによる損害=マイナスの利益)というものがあるが、これがよく分からなかった。基本書には、しばしば信頼利益は履行利益より少ないということが前提されているように思える記述があるが、信頼利益と履行利益の定義を見てもどちらがより少ないというのは自明ではないように思える。

http://www.8111.com/info/term/system/word_dtl.php?id=001029

どちらが少ないか自明ではない以前に、信頼利益、履行利益は両立するようにも思える。

そもそも、民法の想定する「通常の」*1契約とは、例えば次のようなものだ。販売網を持たない製造業者Aと、製造設備を持たない流通業者Bの取引を考える。Bは、Aから商品αを購入する費用と商品αを売却して得られるだろう利益から純利益を計算する:
純利益 = 売却額 - 購入額

もし、AとBの契約が成立していたのならば、Bは純利益を得るはずだ。このBの純利益の存在は、まさに市場経済というものが成立するための必要条件であり、市場経済を保護する日本の民法においては、正当な利益であり、保護されるべき利益だ。その保護をより十全にするために、Aが売却という債務を履行できなかった場合に*2、AはBが得られるはずだった純利益を賠償しなければならない。この純利益が、履行利益にあたる。

ところで、Bは商品αを購入して売却するために、何らかのコストを支払っているかもしれない。商品αの広告をうったかもしれないし、そのほかの形で売却先を探すため経費を使ったかもしれない。したがって、先の式はもう少し複雑になる:
純利益 = 売却額 - 購入額 - 諸経費*3

この諸経費は、AとBの契約が成立していたのならば、Bが負担するべきものである。この諸経費が、信頼利益にあたるとすれば、信頼利益の一般的な説明(ある契約が有効だと信じたことによる損害)に一致するだろう。そして、契約が成立していたときには履行利益が賠償され、契約が成立していなかった場合には信頼利益が賠償されるという説明にも一致する。

ところで、この予想された純利益を上回る諸経費をAに補填させるとすれば、これは奇妙なというか、少なくとも通常の市場経済を保護するためには過大な保護となる。なぜなら、Bは純利益を得るために取引を行っているのだから、その分だけ保護していればBの経済活動のリスクは除去できる。逆に、Aの立場からいえば、「通常負うべきはずの負担」あるいは「契約の誠実な履行によって負うべきはずの負担」以上の負担以上を負うことになる。

もし、Bが純利益を上回る保護が得れればより経済活動のインセンティブが高まるといっても*4、それは「通常得られる以上の利益」あるいは「契約の誠実な履行によって得られるはずの利益」以上の利益を他者の負担によって得る可能性によって得るインセンティブであるから、保護するに値しないといえるだろう。そのようなインセンティブまで保護しなければならないとするならば、たぶん、その経済活動を市場経済にゆだねるという選択自体がどこか間違っているのだ。

したがって、

  • 契約が成立していたときには履行利益が賠償されるべきであり、契約が成立していなかった場合には信頼利益が賠償されるべきである
  • 扱う場面が違うので、また履行利益が賠償された場合には信頼利益はもともとBが負担すべきものであるので、両方が両立したり、競合したりすることはない
  • 賠償されるべき信頼利益が履行利益を上回ることはない

という理論は、正当化できる。

しかし、諸経費が純利益を上回ることは理論上ありえる*5
純利益 = 売却額 - 購入額 - 諸経費

ここで、僕は困惑していた。

たぶん、履行利益の補填には信頼利益の補填も含まれていると考えるべきなのだろう。そもそも、債務不履行によって、予想された純利益の金額だけ補填された場合は、すでに支払ってしまった諸経費が予想された純利益の金額を上回っていた場合、Bの手元には何も残らない。Bの手元に見込まれた純利益の額を残すためには、AはBのすでに支払ってしまった諸経費も補填しなくてはならない。したがって、履行利益を補填するために支払われなければならない金額は、 純利益 + 諸経費の金額だ。

それでもなお、履行利益の金額とは、定義からは純利益の金額のことだと考えるべきだとすれば、履行利益の賠償額は、履行利益と信頼利益を合算した金額であって、履行利益の金額を超える。つまり、履行利益100万円の賠償のために、1000万円賠償するということがありえる*6

追記1

よって、
履行利益の賠償額 = 純利益 + 諸経費 > 諸経費 = 信頼利益の賠償額
となるわけだが、これは、もちろん、純利益がマイナスであった場合には
履行利益の賠償額 = 純利益 + 諸経費 < 諸経費 = 信頼利益の賠償額
となる。

もっとも、そういうことはあまり起きない。当たり前だが、基本的には利益をある程度合理的に見込めるから取引をするのだから、純利益がでないというのは、なにか非合理なことが起こったのだ。また、転売に失敗したとしても、その商品そのものは手元に残るから、そもそもの購入額がその商品の本来的な価額を上回っているとか、購入額とその商品の本来的な価額の差額を超える経費を使ってしまったというときでなければそういうことは起きない。

しかし、投機的取引の失敗の場合などでは、契約が有効でかつ履行された場合にどう考えても純利益はマイナスにならざるをえなかった、ということはありえる。これは最終的には、純利益がマイナスであっても、信頼利益の賠償額が履行利益の賠償額を上回ることはないというルールが法的にあるのだ、と考えるほかないように思う。前述のように、もし、契約無効の場合に契約が有効かつ履行された場合の純利益を上回る利益が手元に残るという保護は、Bが他者の負担によって自らの失敗を補填させることになるからだ。

例えば、ある愛玩動物βをAがブリーダーBに販売したところ、その動物が疫病に罹患しており、Bのもともと飼育していた他の動物γまで死んでしまった。この場合、Bのγの価額を信頼利益とすると、債務不履行の場合Bはβの転売による純利益と、γの価額の合算額を履行利益として請求できるが、もしβの転売による純利益がマイナスでしかありえず、γの価額がそれに及ばないとすると、契約が無効であったほうがBは利益を得ることになる。

そうすると、次のような式ではどうか:

  • 履行利益の賠償額 = f(純利益)+ 諸経費 > 諸経費 = 信頼利益の賠償額
  • ただし、f(x)は x > 0のときx、それ以外のとき0。

しかし、これでもまだ、契約が有効でかつ履行されなかった場合に、Bが履行された場合の純利益を上回る利益を手元に残すことになるだろう。つまり、次のトリレンマが残る:

  • 履行利益の賠償額 > 信頼利益の賠償額
  • 得られただろう純利益 = 履行利益の賠償によって手元に残る金額
  • 信頼利益の賠償額は正

結局、次のようにするほかないように思う:

  • 履行利益の賠償額 = f(純利益 + 諸経費)
  • 信頼利益の賠償額 = g(諸経費)
  • ただし、f(x)は x > 0のときx、それ以外のとき0。g(x)はf(純利益 + 諸経費) > 諸経費のとき諸経費、それ以外のときf(純利益 + 諸経費)。

これでは、逆にAがBの失敗によって偶然的な利益を得る可能性がある。先の例で言えば、(1)βの転売による純利益がマイナスになる場合に、契約が無効であったほうがBは利益を得るという不合理を除くために、(2)契約が無効である場合に、βの転売による純利益がマイナスになればAの賠償額は減るということになる。どちらがマシかといえば、これはつまりはBの失敗なのであるからBが不利益を被るのは仕方がない(少なくともAの不利益によって補填することは許されない)、Bは何らかの手段によってAに危険を事前に負担させることもできた(違約金支払いによる解約条項を設けるなど)、法はなるべく社会の現状を尊重するべきである、ということから(2)のほうがマシだろうと思う。

追記2

追記1で書いたことは、おかしいな。

なぜなら、契約が無効であれば、BはAに、おそらくはβの現在価額相当の金員を返却するかわりに、βの購入代金を返却してもらうことによって、自分の失敗をAに転嫁できるのは当たり前のことだからだ。というか、契約が無効である以上、投機的取引というBの失敗も、もともとなかったことになる。したがって、信頼利益の賠償や履行利益の賠償をあれこれいじって、そもそもなかったことになった「Bの失敗」をAに補填させるのが云々などといっても意味が分からない。

そうすると、やはり、履行利益とは契約が有効であることを前提に「正常な状態」、つまり、履行が行われたのと同じ経済状態を回復するものであり、信頼利益とは契約が無効だったことを前提に「正常な状態」、つまり、契約が不存在であった状態(そして、誰も契約が存在し有効であることを信じなかった状態)と同じ経済状態を回復するものである、と考え、かつ、信頼利益の賠償は、履行利益の賠償を上回ることがある、と考えるしかないのか。

今回もまた、いろいろ考えた挙句、教科書や判例に書いてあるとおりの結論になる、というしょっぱい経験をしてしまった。

ただ、契約無効なのであるから、Bは契約がなかった状態に「巻き戻す」ことによって投機的取引の失敗をAに「転嫁」することができるとし、取引した商品βの市場価格の変動によってそうなることは仕方ないとしても、Bの支出した諸経費が非常識なほど過大であったがためにBが失敗した場合にまでAに全てを転嫁することは、やはり非合理なように思える(Bは無効理由を知りながら、失敗したときにはAに「転嫁」することを前提に行動できることになってしまう)。これは、追記1で考えたように自動的に信頼利益の賠償が履行利益の賠償によって頭打ちになるということはないにしても、やはり信頼利益の賠償の調整が必要だ、ということにはなるだろう。

*1:この括弧は強調ではなく留保。

*2:とくにAに帰責される原因によって。例えば、Aが商品αを別のCに売却してしまったとか。

*3:ただし、すでに支払ってしまった諸経費だけを考える。ここでの議論では、それだけで十分だと思われる

*4:高まるだろうが。

*5:実際の経済活動で、どれほどありうることかは疑問だが。

*6:このあたりに、概説書などで使われている用語の曖昧さがあるように思う。