『心・身体・世界』

ヒラリー・パトナム『心・身体・世界』*1を再読した。

パトナムが第二部で主張していることは、ひどくおおざっぱに言えば、身体なき精神(霊魂)という概念は理解できないので、精神なき身体という概念も理解できない、ということだろう。もちろん、前者から後者が論理的に導かれるわけではないが、前者がなぜ理解できないのかというパトナムの説明を踏まえると、後者が理解できなくなるのもある程度なるほどと思えるし、少なくとも、後者を理解可能だと主張する/前提する側がそれを説得的に擁護しなくてはならない、ということは理解できる。

身体なき精神という概念が、なぜ理解できないか。なぜなら、僕たちが他者の精神を理解するとき、その内容はその他者が身体を持っていることを前提にするからだ。例えば、ある人が手を伸ばそうと意図するならば、その人が手を持っていることを前提とする。また、ある人が目の前にある彫像を見るならば、その人は身体はその彫像のすぐ近くになくてはならない。もし、身体なき精神(霊魂)が存在するならば、それは手を伸ばそうともしないし、何かを目の前に見ることもないし、身体を持っている人間が意図するようなことをほとんど意図することができないし、身体を持っている人間が認知するようなことをそのようには認知することができない*2。つまり、身体なき精神が存在するならば、それは身体ある人間の精神とは全く似ていない何かであり、およそ何ものにも似ていない何かだろう。よって、それは理解可能ではない。

では、身体なき精神、つまり身体から独立した精神という概念が理解できないとするならば、精神とはどのようなものだと理解すれば良いのだろうか。消化が身体の持つ機能であるように、精神もまた身体の持つある機能だと理解すれば良いのだ*3。そう理解すると、精神を持つ人間の身体と同じように十全に機能しながら、同時に精神を欠いている身体というのは想像することができない。消化する機能を欠いている身体はありうるが、それは消化する機能を備えている身体のようには健康に振舞うことができないのと同様だ。

これはこれである程度説得的な議論だと思うののだが、しかし、パトナムは宗教的な文脈であれば身体なき精神、つまり霊魂を理解することができる、ということも主張する。たしかに、ある言明が文脈によって理解可能になったり、理解不能になったりすることはある。ユークリッド幾何学の文脈では内角の和が180°ではない三角形というのは理解不能だが、非ユークリッド幾何学の文脈では理解可能ではある。だが、精神は身体から独立した存在者ではなく、身体の機能であるといったような僕たちの世界認識にとって基礎的と思えるようなことが、文脈によって変りうるものだろうか。

*1:

心・身体・世界―三つ撚りの綱/自然な実在論 (叢書・ウニベルシタス)

心・身体・世界―三つ撚りの綱/自然な実在論 (叢書・ウニベルシタス)

*2:僕たちが何かをみるとき、少なくともたいていの場合は、それが近くにあるとか、遠くにあるとかいった認識とともに見る。

*3:ここで「機能」という言葉を使うのは、心の哲学における機能主義を示唆するように思えるので、ほんとうはまずい。でも、たんに「能力」というより分かりやすいように思うので、「機能」ということにする。