『現代唯名論の構築』

中山康雄『現代唯名論の構築』*1を読んだ。正直なところ、あまり期待していなかった*2。しかし、実際に読んでみると、すばらしく面白かった。すらすら読めるし。これはいい。じつにいい。ただ、とはいえ、いくつも疑問はある。

時間的切片は線形順序をなすか?

中山は宇宙全体の時間的切片が線形順序をなすという四次元メレオロジーの体系を提案するが*3特殊相対性理論以後の物理学の理論には、これは当てはまらないはずだ。光速に近い速度で行き違う二つの電車があり、一つ目の電車の先頭車両にAが、その電車の最終車両にBが、二つ目の電車の先頭車両にCが、その電車の最終車両にDが乗っているとき、Aのある時間的部分(a)から見てそのaと同時に存在しているBの時間的部分(b)とCの時間的部分(c)とDの時間的部分(d)は、cから見て同時に存在する時間的部分ではない。つまり、ある時空点を含む宇宙全体の時間的切片というのは複数ありえ、それらの間では、どちらが時間的に前か、後か、というのは意味をなさない。

僕の特殊相対性理論の理解が間違っていなければ*4、これはかなり明確は誤りだといえるだろう。中山は、複数の言語があり、それらの間に還元が成り立つ必要はないとする。そのため、日常言語においては水はどこまでも水に分割することができるが、化学や物理学の言語においては水を分割していけば水分子に到達しそれ以上は分割できなくなる、という齟齬を認める*5。しかし、時間的切片について、これと同じように、日常言語と物理学の言語では齟齬があることを中山の理論では認めることができないはずだろう。時間的切片の規定を含む四次元メレオロジーの体系は、すべての言語に共通する枠組みとして提示されているようだから*6

宇宙全体の時間的切片が線形順序をなすということが僕たちの言語の超越論的な制約だとすることは、ユークリッド幾何学が僕たちの認識の制約であるとしたカント的な試みであり、そしてカント的な誤りであるように思う。

特殊相対性理論を含む物理学の言語に、宇宙全体の時間的切片が線形順序をなすという規定を当てはめることはできないので、これを避けるには二つの方法がある。(1)この時間的切片の規定をあくまで日常言語に当てはまるものとして適用範囲を縮小する、(2)このこの時間的切片の規定を放棄して半順序をなすとすることで満足する。

(2)のほうが野心的な意図を維持することができ、その点で魅力的だ。しかし、特殊相対性理論以前においては時間的切片が線形順序をなすということを受け入れられたのに、特殊相対性理論以後には受け入れられないということは、その規定が経験的な反証を受けるものであり、形而上的な制約ではないということを意味する。では、時間的切片は半順序をなすということは、形而上的な制約なのだろうか? 時間は循環してない、と形而上的に言い切れるものだろうか。

数学的な語りはどこに?

この節は10月28日に書き直し

中山は、事実は、物理的事実、内省的事実、社会的事実の三つに分類される、とする。では、nの2乗がnであるような自然数nが存在する*7、という命題はどれに分類されるような事実を表しているのだろうか? それとも、これはそもそも「事実」ではないのか?

別の言い方をすれば、自然数12、有理数2/3、実数π、複素数iといった数学的対象は存在者なのか? 存在者であるのならば、物理的な存在者、心理的な存在者、社会的な存在者*8のいずれなのか?

中山の「唯名論」という立場、四次元メレオロジーの体系、物理的事実、内省的事実、社会的事実の説明はすべて、時空的な存在者、つまり空間の中でどこかにあり、時間の中でいつかに存在するような存在者を前提にしているように思える。そうすると、中山の議論に従えば、自然数12、有理数2/3、実数π、複素数iといったものは存在者ではなく、nの2乗がnであるような自然数nが存在する、というのは「事実」ではないし、そのような言明は記述ではない、ということになるだろう。

しかしながら、素朴に考えれば、僕達は数学的な事実について語っている。いかなる二つの実数の間にも何らかの実数が(無限に多く)存在するし、自然数7は素数である。端的に「記述ではない」と言い切ってしまう回答を除けば、次のような答えが想定できる:

  1. そのような語りは、じつは数学的対象について語っているのではなく、例えば、実数であれば直線について、微分であれば接線の傾きについて、語っているのである。
  2. 数学的対象は政府などと同じように社会的事実として存在し、数学的な命題は社会的事実を表している。
  3. そのような語りは、架空の対象について語っているフィクションである。

1.の路線でいけば、ある種の数学実在論を擁護することになる。しかし、この路線の場合、では、現在のところおよそ応用が見出せていないような、あるいは現実の存在者によってモデルが作れていないような数学の分野は、いったい何について語っているのだろうか。四次元メレオロジーの体系を前提にすれば、五次元図形を持ち出すだけで、かなり苦しいことになっていくるだろう。

2.の路線で行った場合、数学的対象は時空的存在者、つまりたぶん地球上のどこかにあり、人々がその存在を信じるか見出すようになれば存在し、誰も省みなくなれば存在しなくなるような存在者なのだろうか。しかし、自然数7が素数であるとういことが、それが正しいと信じている人間集団がいる限りで真である、というのはいささか腑に落ちない話ではある。

僕としては、この三つのうち、3.の路線がもっとも見込みがあるように思える。しかし、その場合、架空の対象についてフィクショナルに語るとはいったいどういうことなのか、そのような語りが確実な知識を提供するというのはどういうことなのか、という点などを、真剣に考えなくてはならないように思う。

社会的事実において認識と存在の間のギャップはないのか?

中山は、204項で「認識と存在の間のギャップの可能性を認める」とする。もっとも、中山のいう「社会的事実」においては、認識と存在の間のギャップは基本的には存在しない。おおざっぱに言って、ある集団Gがpが事実として成り立っていると信じているならば、pが事実として成り立っているからだ。しかし、そうであるならば、例えば、法解釈といった営みはどういったものになるのだろうか? 法の内容が中山のいう「社会的事実」であるならば、判例と法実務を実質的に変更するような法解釈は、単純に、新しい法を提案しているにすぎないだろう。それとも、そもそも法というものは存在しないのか。

それはそれでひとつの解決なのだが、僕としては、法解釈においては実定法(判例法を含む)の最善の解釈が捜し求められているのであり、その最善の解釈における法が発見されているのだと、考えたいところがある。つまり、法においては認識と存在のギャップがあるのだと、考えたいところがある。

このような考え方をとるのであれば、社会的事実とは、現に存在している信念を直接に反映したものではなく、むしろ、中山のいう「社会的事実」の最善の解釈を反映したものだということになるだろう。例えば、現在の一般的な日本国憲法の解釈では、法人にも人権が帰属するが、もしかしたら、最善の解釈においては法人には人権は帰属しないのかもしれない。その場合、社会的事実として、法人に人権は帰属しない。あるいは、中山のいう「社会的事実」とは別に、「解釈的事実」とでもいうべき別の分類を見出すべきなのかもしれない。

さて、上の「数学の言語はどこに?」という疑問が、ここに関連してくる。僕としては、数学的な語りは架空の対象についてのフィクションである、と考えるのが見込みがあるように思う。しかし、それと同時に、さきほどの解釈的事実というものを考えるならば、数学の言語が表しているのはそれである、と考える余地もあるかもしれない。

これであれば、ピタゴラスの定理はそれが正しいと信じている人間集団がいる限りで真である、ということは成り立たない。ピタゴラスの定理に誰も気づいておらずとも、少なくともユークリッド幾何学の公理系を受け入れている集団においては、ピタゴラスの定理ユークリッド幾何学の最善の解釈に含まれているだろうし、無理数の存在も含まれているだろう。もっとも、誰もユークリッド幾何学の原型的あるいは原始的な体系さえも受け入れていなければ、ピタゴラスの定理は真ではないということになるが、その程度の制約であれば許容できるように思える。

*1:

現代唯名論の構築―歴史の哲学への応用 (現代哲学への招待)

現代唯名論の構築―歴史の哲学への応用 (現代哲学への招待)

*2:春秋社の「現代哲学への招待」シリーズをこの本以外ぜんぶ持っていることに気づき、シリーズをコンプリートしたいコレクター心理からゲットした

*3:49項。

*4:これに確信が持てないが。

*5:66項。

*6:そうはっきりと書かれている箇所は見つからなかったが、書籍全体の展開からしてそう思う。

*7:自然数1。

*8:中山はこういった言い方はしないが。