精神の物理現象への還元可能性

何を言いたいのか分からないけど、そのまま

中山『現代唯名論の構築』も、パトナム『心・身体・世界』も、精神(心)の物理学の言語への還元可能性を、あっさりと必要のないものだと退ける。僕はジェグウォン・キムの著作をちゃんと読んでいないので公正ではない判断になるが、たしかに、中山とパトナムが論敵として紹介するキムの議論に対しては、二人の論駁は説得的であるように思える。また、僕は、結局は、これらの意見に賛同する。しかし、ちょっと気になることがある。

まず、たしかに、ある意味では、日常的な言語、素朴物理学の言語によって語られるすべての性質が、基礎的なミクロの物理学の言語によって語られるような性質に還元できるわけではないし、還元する必要もない。例えば、1mの氷柱があったとして、その氷柱を構成するどの水分子にも1mという性質が備わっているわけではない。この意味では、長さが1mという性質は還元できない。もちろん、その氷柱を構成する水分子の標準的な間隔?の長さがこれくらいである、そしてその水分子はこのように配置されていると説明して、その上で、その氷柱の長さが1mであるということを説明することはできる。しかし、それは結局、マクロな(あるいは中くらいの)存在者でる氷柱が1mの長さであるような形状を持っているということを、言い換えたに過ぎないとも言える*1

しかし、他方で、伝導性という性質は、かなりミクロな領域にまで還元できるだろう。1mの純金棒が伝導性を持つのは、そのミクロな構成部分が伝導性を持つからである*2。ここで、長さが1mであるという性質の還元と、伝導性という性質の還元は異なった問題であることがわかる。そして、因果的効力を持つという性質は、還元に対してどちらのタイプの性質なのだろうか。

その因果法則・因果関係の具体的な内容ははっきりしないまでも、ともかく因果的効力を持つという性質は、ミクロな構成部分に分割可能であるべきではないだろうか? ある鉄球が別の鉄球にぶつかって、後者の鉄球が動く、とする。二つの鉄球が衝突するとき、その境界面で働いている因果関係が、ミクロ領域の基礎的な物理学でいうところの四つの力のどれによって引き起こされているのか、僕には良く分からない(まぁ、すべての力が、ということなのかもしれないが)。しかし、ともかく、その衝突において、それぞれの鉄球の衝突面近くのミクロな構成部分が相互に因果的影響を与えているから、衝突された鉄球が動くのに違いない、ということは言える。

僕は、精神の内容が、因果的効力だけで個別化されるとは考えていない。そして、同じ精神の内容が、同じ因果効力を持つともいえない。パトナムが言うように、スイッチをひねれば火がつくという信念は、他の信念や意思と結びつくことによって、スイッチをひねるという結果を生み出すこともあれば、むしろスイッチをひねらないようにするという結果を生むことがある。だから、いわば因果関係の還元可能性に訴えたところで、精神の物理現象への還元可能性を保証することはできない。

しかしながら、ほとんどの、たぶん全ての精神の内容はなんらかの因果的効力を持つし、その因果的効力については、よりミクロな構成部分の因果的効力に還元可能であるはずだろうと思う。

*1:別に、そのマクロな存在者である氷柱の形状を、ミクロな存在者である水分子の配置によって説明しなおすことができるだけで、「還元した」といえるのではないかという気はするが

*2:棒の材質によっては微妙だが、ここでは無視する。