親鸞のダークサイド

僕は死後の魂を信じていないし、西方浄土も、阿弥陀仏の本願も信じていない。なので、親鸞の教説に従いはしない。しかし、それでも、日本人で最大の思想家は誰かといわれれば、僕の知る限りは親鸞だと答えるし、無人島に持っていく本はと聞かれれば、そのナンバーワン候補は『歎異抄』だ。

さて、『歎異抄』(かなり自由に現代語訳):
親鸞唯円、私のいうことを信じていますか?」
唯円「もちろん、信じています」
親鸞「本当に、偽りなく、信じますか?」
唯円「もちろん、信じます」
親鸞「では、例えば、人を千人殺しなさい。そうすれば、浄土へ行き、悟りを得ることができます」
唯円「申し訳ありません。一人であっても、私の能力では殺すことはできないでしょう」
親鸞「このように、千人殺そうとしても、その条件が満たせなければ殺すことはできない。また、逆に、人を傷つけまいと思っても、百人・千人を殺してしまうこともある。心の良し悪しの問題ではないのだ」

この対話は、善行も悪行も意志外の条件によってなさしめられてしまうという人間のあり方へ話が展開する。しかし、それにしても、もし可能であれば千人殺すということを否定はしない師弟のやりとりには、ゾクリとする空気がある。

歎異抄』には、「善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」という悪人正機の有名な句がある。親鸞が、『教行信証』で、五逆の罪を犯しても救われるのかと執拗に問い、王舎城の阿闍世王が救われると結論付けたことを考えるならば、「善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」でいう「悪人」とは、文字通りの悪人、親殺しの阿闍世王、人を殺し、奪った血みどろの人間のことであると思う。この「悪人」という言葉で僕がイメージするのは、人を殺した返り血を浴びて、殺気とも狂気ともあるいは茫然自失ともつかない目つきでたたずむ男の姿だ。

また、血みどろの殺人者とまでいえば言いえすぎだが、親鸞自身も、自分を破和合僧の罪人だと認識していただろうというのは無理のない理解ではないだろうか。そうだとすれば、自分を親殺しと並ぶ罪人だと自己認識していたことになる。その自己認識において大罪人である親鸞が、「血みどろの殺人者が救われなくって、何の救済か! 何が大乗か! 親殺し、子殺しこそ救われるべきだ!」と抗議する、挑戦する、絶叫する。それが「善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」についての僕のイメージだ。

まさに異端的といっても良いだろうこの絶叫を背景にすれば、先の『歎異抄』のやり取りも、また違った印象を帯びてくる。もちろん、確認しておくけど、『歎異抄』の中のやり取りは例えであり、殺すも殺さないも意のままになることではない、悪人が救われるからといって意図して悪行を行うべきではない、という議論に展開していく。しかし、いずれにせよ、千人殺すとなったら殺す、オレもオマエも、殺すとなったら千人殺す、現にオレは五逆の罪を犯している、という親鸞の信念が背景にあるように思う。

この親鸞の信念をなんといって良いのか、分からない。「ダークサイド」といって的を得ているのかどうかもよく分からない。しかし、親鸞のこのゾクリとする側面が、僕にとっての親鸞の魅力の一端となっている。