実在・道徳

今日、一日、次のような考え方を考えてみていた:

まず、手で変形させられる、叩けば音がするなどなどといったことの他に、それとは別に、「実在する」といった性質、状態、あるいはその他の何かがあるわけではない。こういったからといって、日常的な五感で直接知覚できないようなもの、例えば、水分子が実在しないと言っているわけではない。水がなみなみと入ったコップの中から水分子を取り除きたかったら、コップを傾けて内容物を流しだした後、乾燥させればよい*1。弾く、曲げる、伸ばす、叩く、壊す、流し出す、暖める、冷やす、通電させる、照射する… こういった実在的な操作のリストはかなり長くながく増やしていくことができるだろう。

また、べつに、架空の存在者、数学的な存在者の存在を認めないわけではないし、それらを語ることにまつわる真偽を否定するものではない。数学的な語りをフィクションに含めると*2、フィクショナルな意味で何かが「存在する」ことはありえるし、それが存在する以上、真偽もまた少なくとも文脈に応じて「客観的」*3に確定する。しかし、それらは、先にあげたような、曲げる、伸ばす、叩く… といった実在的な操作の対象ではない。

実在的な物事、架空の物事の間を分かつのは、実在的な操作の対象となるかどうかである*4。実在的な操作というのはひとつのクラスである。曲げる、伸ばす、叩く… といったよう具体的な操作のほかに、抽象的な「実在的な操作」なるものがあるわけではない。また、そのクラスのメンバーには、そのクラスに含まれているということ(呼び方は他の呼び方でも構わないが)や、ある曖昧な「表情」「家族的類似関係」以外には、とくに普遍的に共通しているものがあるわけではないかもしれない。

フィクションにおける真偽も、ある比喩的な意味で「操作」することはできる。例えば、1≡4という同値関係を真にすることもできるし、もちろん偽にすることもできる。それは、どのような文脈を与えるかに依存する。実在的な物事の真偽は、実在的な操作によって変更することができるが(例えば、東京タワーは徹底的に破壊すれば存在しなくなる)、架空の物事の真偽は、ただ文脈を設定することによってのみ変更することができる。文脈を設定する方法もいくつもある、暗黙の了解を加える、明示的な仮定を加える、あることを無視ないしは度外視する… たぶん、文脈を設定するというのも、ひとつのクラスであって、抽象的な「文脈の設定」なるものがあるわけではないだろう。

実在的な物事も、文脈を設定することによって真偽を変更することはできる。ある鉄棒がきっかり1.23メートル*5であるということの真偽は、単位系の再設定によって変更される。実在的な物事の真偽は、たぶんに何が存在するのかということも含めて、実在的な操作によっても、文脈の設定によっても変更することができる。しかし、架空の物事は、ただ文脈の設定によってだけ、変更することができる。

したがって、道徳的な諸性質も、審美的な諸性質も、実在的な性質である。例えば、無実の罪でひどい刑務所に収容され、日々鞭打ち、苦しい姿勢の強要という拷問を受け、餓死寸前まで飢えている人の境遇は、悲惨だという道徳的性質を持っている。この悲惨であるということを変更するには、どうすれば良いだろうか? もしかしたら、(あまり言いたいことではないが)文脈の設定によって変更することも可能かもしれない。例えば、彼はそのような虐待を受けるに相応しい身分の生まれであると仮定するとか。しかし、もちろん、鞭打ちをやめるとか、楽な姿勢をとる環境を整えるとか、食事を与えるとか、刑務所から開放するとかいった、実在的な操作によって少なくとも部分的に変更することができる(実在的な操作のリストがまた増えた)。

審美的な諸性質の場合は、もっと簡単だ。ある可愛らしいぬいぐるみの、その可愛らしいという性質を変更するには、文脈を設定することによってなすこともできる。他のもっと可愛らしいものと比較するとか、それを可愛らしいと認めない文化の視点から考えるとか。しかし、もちろん、もっと簡単に可愛らしくなくすことができる。燃やすとか、タールを塗りつけるとか。

たぶん、ほとんどの命題の真偽、ほとんどの物事の存在は、文脈に依存する。しかし、実在的な物事については、ただ文脈に依存するだけではなく、実在的な操作によって変更することができる。


この考え方から、次のような、今はひどく曖昧にしかいうことができないアイデアを引き出すことができるように思う。そして、そのアイデアは、僕が哲学上の難問だと思っている、数学的な命題の真偽と自然科学的なないしは素朴物理学的な真偽の関係を解くことができるかもしれない。

まず、その難問とは、次のようなものだ。つまり、例えば、今、僕の目の前の机の上にタバコの箱が二つあるけども(ひとつは空で、ひとつは12本くらい?のタバコが入っている)、そのうちのひとつをゴミ箱に捨てれば、その机の上のタバコ箱は一つになる。ここでは、「二ひく一は、一」という自然数の演算に関わる数学的な命題の真偽が、素朴物理学的な対象に関わる命題についての推論の一部を構成している。自然数1や自然数2は、まったく抽象的な非時空的対象である。その非時空的対象が存在するということと、その非時空的対象に関わる真偽とは、タバコ箱のような具体的で物理的な時空的存在者の存在と、それに関わる真偽とは、異なることなのだろうか? それらが全く異なることであれば、それらを組み合わせて一つの推論を構成するということが可能なのだろうか?*6

この疑問は、存在や真理の概念が、少なくともタバコ箱のような時空的存在者については一意に確定されているべきであり、それにまつわる真偽については一意に確定されるべきである、という直観と、そのように一意に確定された真偽を導く推論も、例えば因果関係や位置関係のように、何か「客観的」な関係に即したものであるべきだ、という直観に支えられている。そして、自然数1や自然数2のような非時空的対象は、タバコ箱のような時空的存在者と因果関係や位置関係のような「客観的」な関係を持つことができなさそうなので、それらについての真偽を組み合わせて一つの推論を構成するということが、疑問に思えてくる。

この疑問に答える一つの方法は、例えば、自然数1や自然数2は独立の対象・存在者ではなく、例えば、{x|その机の上にある(x)∧タバコの箱(x)}というような集合の性質を言い表したものだと考えることになる*7。このように考えれば、さきほどの僕の推論は、時空的存在者の集合の性質に関わるものになり、その推論から最終的に「その机の上のタバコ箱は一つになる」という結論を導くことにほとんど疑問はない。

しかし、僕はこの解決の対価はあまりに高いものになるように思う。まず、この解決は、自然科学的なないしは素朴物理学的な時空的存在者に関わる何事かへの応用を今のところ持たないような数学分野については、適用できない。ここから二つの選択肢がある: (1)時空的存在者に関わる応用を持たない数学分野の命題に真偽はない、(2)時空的存在者に関わる応用を持たない数学分野の命題の真偽と、応用を持つ数学分野の命題の真偽は、まったく異なる概念だ。(1)はあまりにもひどい結論だろう。(2)は許容できはするが、かなり釈然としない解決だ。やはり、自然数の体系についての理論における命題の真偽と、奇妙なトポロジーの体系か何かの応用を持たない命題の真偽は、同じ、少なくともここで説明している解決が示唆するような違いはない概念ではないだろうか。

さて、「今はひどく曖昧にしかいうことができないアイデア」は、次のようなものである:

  • 自然数の体系はひとつの文脈であり、自然数1や自然数2はその文脈に相応しい存在や真偽の概念、適用を持つ。自然数1や自然数2はフィクショナルな存在者であり、その存在やそれに関わる真偽はその文脈にのみ依存する。
  • 素朴物理学もひとつの文脈であり、机やタバコの箱はその文脈に相応しい存在や真偽の概念、適用を持つ。机やタバコの箱は実在的な存在者であり、その存在やそれに関わる真偽は、実在的な操作によっても変更することができる。
  • しかし、両者の存在や真偽の概念を組み合わせて、推論を行うことは正当化させる。なぜなら、両者の文脈を組み合わせて、そのような推論を可能にする新たな文脈を僕が設定したからだ。

ひどい解決だろうか? しかし、例えば、12本のタバコが入った箱から、3本引き抜いても、箱の中のタバコの数は同じである、商集合の同値関係の文脈では。このことを考えれば、むしろ、それぞれの数学的体系の文脈と、素朴物理学の文脈を組み合わせるということを考えないほうが、おかしくはないだろうか。

このアイデアの対価のひとつは(このアイデア自体がひどく曖昧だということはおいておくとして)、12本のタバコが入った箱から3本引き抜いたら、箱の中のタバコの数は変わるということも、そうであっても変わらないということも、文脈に依存して真になったり、偽になったりするというように、素朴物理学に関わるかなり確実そうな命題さえも、真偽が文脈に依存するようになるということだ。しかし、それにはこう答えることができる: それで正しい。ただし、12本のタバコが入った箱から3本引き抜いても箱の中のタバコの数は変わらないという文脈も、設定しようと思えばやってやれなくはないということであって、普通は、十分な自然数の体系を組み合わせた文脈を暗黙に想定しているし、その暗黙の想定を覆すために文脈の変更を明示する責任は、覆す側にある。

もうひとつの対価は、存在するという概念や、真である/偽であるという概念自体が、文脈に相対的だということだ。この点についても、それで正しい、と考えておくことにする。


さらに、このアイデアというか、このエントリで延々と書いている考え方の、一見、対価にみえるものがある。それは、実在的な物事についての言明、命題の真偽も文脈に依存するのであれば、それは「見方次第」ということであり、フィクションと実在との境界も消えうせ、極端な存在論相対主義ないしは認識論的相対主義に落ち込むのではないか、ということだ。

たしかに、実在的な事物と架空の事物の間には明瞭な境界線は引けず、グラデーションを作っているのかもしれない。しかし、実在的な事物の存在とそれに関わる真偽は、文脈の設定だけではなく、伸ばす、壊す、通電させる、照射する、刑務所から開放する… という実在的な操作によっても変更することができるし、その違いは重要なものだと思う。無実の受刑者の悲惨さを解消するためには、刑務所から開放することも、その受刑者の社会身分に関わる仮定を加えることも、どちらでもできるとはしても、両者の方法の間に重要な違いがないというのは、まぁ… なんというか… まともな考え方ではないだろう。ここに重要な違いがない、という人には、僕は今のところ説得のすべを持たない。


なんか、まとまりがなくなってきているが、気分がのっているのでこのまま続ける。僕のパッションとして、存在論相対主義、認識論的相対主義の極端なバージョンは、道徳が関わる局面でこそ克服されなくてはならない、というようなものがある*8

飢餓に苦しむ人に食料を届けることと、食料を届けたように思うことは違うし、子どもを乱打することと、乱打したと思われることは違う。飢餓に苦しむ人に食料を届けたることへの貢献は基本的には賞賛されるべきだし、そのように届けたように思うことへの貢献は同じように賞賛されるべきだとはいえない。子どもを乱打することは基本的には非難されるべきだし、乱打したと思われたことは同じように非難されるべきだとはいえない。

この違いを、僕は擁護したい。いま述べた個別的な道徳的判断、例えば、子どもを乱打することは基本的には非難されるべきだ、という判断に対する異論の話は、あるていど別の話だ。そのような個別的な異論の問題ではなく、ともかく実際にあることが起きているということと、起きていると思うことの違いの上に道徳的判断は立脚するべきであり、立脚できるということを擁護したい。

個人的な好みの問題としては、道徳が関わらない局面であっても、存在論相対主義の極端なバージョンは気に入らない。実際のところ、僕は、宇宙空間を走る放射線がどういったスペクトルを持っているのか、それが宇宙の誕生についてどういった証拠を提供するのかを説明してくれる科学番組が好きだし、そういった研究が公共事業としてなされることに好意を持っている。そういった科学的研究の成果が、簡単に「見方次第」で退けられることは気に食わない。

しかし、宇宙空間を走る放射線がどういったスペクトルを持っているかよりも、飢えた人に食料を届けたかどうかが重要な問題ではないか、というのは重要な問題提起だとは思う。それとややパラレルに、宇宙空間を走る放射線がどういったスペクトルを持っているのかが「見方次第」かどうかよりも、ある人が悲惨な境遇にあることが「見方次第」であるかどうかのほうが重要なことであると思う。


このエントリでは、存在論相対主義にかなりの譲歩を行っている。数学の認識論・存在論とか、あるいは審美的性質の認識論・存在論とか、あるいは科学的認識が「進歩」するとはどういうことかとか、そういった問題からも譲歩を行わざるを得ないとは思う*9

しかし、僕がこの譲歩を行う動機は、道徳が関わる局面において極端な存在論相対主義を退けたいのであれば道徳的性質の実在性を擁護しなくてはならず、しかし、道徳的性質の実在性を擁護するためにはある程度の存在論相対主義をとらなくてはならないという葛藤から来ているのかもしれない。

その葛藤の調停地点として、例えば、ある状況が悲惨であるかどうかというのは、文脈に依存してもいるが、それだけはなく、刑務所から開放したり、食料を届けたりということによっても変更可能なのであって、また、文脈の設定によって真偽を変えることと、実際の行動によって状況を改善することとの間には違いがあるのだ、という考えをこのエントリで説明した。


もっとも、実際にあることが起きているということと、起きていると思うことの違いの上に道徳的判断は立脚するべきであり、立脚できるということを擁護したからといって、すべて解決というわけにはいかない。文脈によって道徳的言明の真偽が変化するのであれば、どの文脈がより正しい、望ましい、妥当なのかといった判断が可能なのかどうか、という問題は残る。

存在論相対主義の極端なバージョンは、道徳が関わる局面でこそ克服されなくてはならない、という僕のパッションからは、もちろん、そのような判断は可能であり、道徳的判断はそのような判断に立脚するべきであり、立脚できる、ということを言いたい。これは、もっとも具体的には、文化的相対主義の話になる。

僕としては、少なくとも、その道徳的判断の文脈を受け入れ続けるために実在的な面において非合理な判断をしなくてはならないのであれば、その道徳的判断はその点において非合理なのであり、その分だけ望ましくないといえるのではないかと思う。そして、このガイドラインによって*10、正しい道徳的文脈、ひいては道徳的判断がひとつに定まるとはいえないけれど、このガイドラインの適用によって、僕たちの道徳的判断はすごくマシなものになっていくと考えている。

これはまた、僕が、科学的知見に基いて道徳的判断や宗教の教説を批判してよいという考えに固執する理由となっている*11

*1:少なくとも、ほとんどの水分子を取り除くことができる

*2:というか、それを含めるように「フィクション」「架空」の意味を拡張すると。

*3:この括弧は、保留の意味。

*4:循環的な主張だが、その難点は無視する。…というか、「実在」とかそういう大きな問題を扱うのに、循環が生じるのは避けがたい。

*5:あるいは「可能なかぎりの精度で1.23メートル」。

*6:この線にそった僕の答えは、「可能である。そこには何の不思議なこともない」というものだが、もう少し、この難問の説明を続ける。

*7:ほんとうはこういった集合はそれ自体、具体的な時空的存在者なのか大いに疑問だが、いずれにせよ、自然数1や自然数2を独立の存在者だと認めたときほどの困難はないだろう。

*8:このパッションは、超自然的な道徳的因果の否定、進歩主義、穏やかな唯物論という、僕の大づかみな思想的態度(?)とも関係している。

*9:正直言って、どうしようもない個人的な哲学的不安、デカルト的懐疑への恐怖も関係している。

*10:明確に白黒付けれる基準ではないが。

*11:とはいえ、僕からみれば非合理な宗教的信念と情熱に基いて、実際に飢えた人に食料を届け、病んだ人の世話をする人々が大勢いることを考えると、少なくともその情熱を、一概に非難することはできない。また、こんなことを言いながら、実際には日本でぬくぬくと生活しながら、たいして慈善活動も行っていない自分の姿は…