ディヴィドソン

何度読み返しても十分に分かった気がしない、ディヴィドソン。また、ひとつ、こう理解してはどうだろうか、というのが思いついた。

まず、直示の意味論、存在論、真理論というのを考える。つまり、語の意味の原型とは、「○○とは、それのこと」と指差して教えられるようなものである。この直示による指示が、語の意味の原型だとする。そして、存在するものとは、基本的にはそのように直示できるものだとする。ある文なり命題なりが真であるとは、「それ」と直示された対象が、命題に示された性質を持っていることだとする。

こういう直示説は、いっけん分かりやすそうだが、いろいろな問題を引き起こす。例えば、実際問題、僕たちが習得する言語は固有名詞だけを持っているわけではない。むしろ、「リンゴ」「人間」「コップ」など、ある種を意味する名詞を膨大に含んでいる。こういう種名詞をどうやって、直示的に教えればよいのだろうか?

しかし、直示説には、単純さの魅力がある。とくに、直示説で説明できる範囲においては、ある命題が真であるとか、偽であるとかといったことについて、まさに「そりゃそうだ」と思える説明を与えてくれる。ある文なり命題なりが真であるとは、その対象がその性質を持っていることだ、という以上に分かりやすい説明があるだろうか?

ディヴィドソンは、単語の意味の直示というアイデアを捨てているけども、大枠において、この直示説のラインにそったもののように思える。その証拠として、ディヴィドソンの意味論は、直示説といくつかの難点を共有しているように思える。(1)その意味論は、基本的には、平叙文しか説明できない。(2)その意味論は、フィクションを説明できないか、ひどく技巧的になりそうだ。それと関係するけど、(3)その意味論は、おそらく、数学における真偽を説明できない*1

*1:僕は、これがもっとも致命的だと思う。数学を哲学的に基礎付けることができなければならない、とは思わない。しかし、ある意味論を提出しておいて、それが数学における真偽を説明できなさそうだというのは、ひどい取りこぼしではないだろうか。そんな取りこぼしが避けられないのであれば、哲学的意味論自体が無謀な構想であるように思える。