『現代唯名論の構築』

10月20日のエントリ「『現代唯名論の構築』」の一部書き直し。

数学的な語りはどこに?

中山康雄『現代唯名論の構築』で疑問に思ったことのひとつが、応用が見出されていないような数学分野の理論はどうなるのだろう? ということだ*1。例えば、直感的には奇妙なトポロジーの体系の一部や、戸田山和久『論理学をつくる』336項で紹介されているロビンソン算術が範疇的ではないことを示すために作られたモデルは、いまのところ応用が存在しないだろう。

もし、数学的対象そのものを存在者とし、数学的命題で示されているような「事実」を端的に事実として認めるならば、そのような体系やモデルにおける事実について語っている、ということができる。しかし、中山の唯名論、四次元メレオロジーの体系は時空的な存在者のみを許すようだから、非空間的・非時間的な存在者だと思われる数学的対象そのものを存在者とすることはできないだろう。数学的対象は存在者ではないとすると、それにも関わらず数学的事実は存在するというのは奇妙だから、数学的事実は存在しないことになるだろう。そして、中山の論じる「語り」は事実についての「語り」だけであるように思えるから、単純に考えれば、数学的な語りは存在しないことになる。だが、純粋に数学的な語りというものが存在するのは、明らかであるように思える。

ただ、中山はフィクションについての語りを認めているように思えるので、もし、フィクションにおいてであれば非時空的存在者を認めることにしてしまえば、数学的対象は架空の存在者であって、数学的な語りはフィクショナルな語りである、としてしまえるかもしれない。

もうひとつは、数学的事実は社会的事実の一種であって、ある数学的「事実」が成立していると信じられているあいだだけ、成立している、と考える道はある。ただ、これは、社会的事実というアイデア自体を修正しない限り、あまりに無茶な解決であるように僕には思える。

*1:物理学や社会学のような、中山が挙げる物理的事実、内省的事実、社会的事実のどれかに関わる理論、物語、語りに含まれるような数学の応用や応用のある数学体系については、なんとか処理できるかもしれない、という気はする。実際に中山がどう処理するのか、よくは分からないものの。