美的性質について・芸術の進歩について

アニメやマンガが大好きで、クラシック音楽やバレエや絵画のような「正統な」アートにあまり興味のない僕が「美」について語るなんてかなり抵抗があるんだが、二つのメモ。

まず、僕はいまのところ「美」そのものはともかく、美的性質、つまり、かわいいとか、不気味だとかといった性質は、実在的だと思っている。それらが、「人の心の中にだけある」というのは、おかしい。かわいい絵は実際に、現実にかわいいのだし、不気味な音楽は実際に、現実に不気味なのだ。

例えば、僕がいままったく知らないある民族がいて、彼らの美術には「ヘレゲゲ」という概念があるとしよう。僕が、素人人類学者で、あるときその民族のフィールドワークに出かける。彼らは、ある土器が「ヘレゲゲ」であるとき感嘆の声をあげてそれを高く評価し、「ヘレゲゲ」でないとき失望のため息とともに低く評価する。僕には、どの土器が「ヘレゲゲ」なのか、どの土器がそうではないのか全く見分けがつかない。しかし、彼ら自身は、新しく創作された土器に対して、どの土器が「ヘレゲゲ」なのか、いくらかの注視の後に判断することができ、彼ら同士の間ではほとんど意見が一致する。

このとき、「ヘレゲゲ」という性質が、僕には識別できないからといって、彼らの心の中にしかない、ということがおかしなことだろう。もし、そうならば、なぜ彼らの意見が一致するのか説明がつかない。それよりも、ある土器は「ヘレゲゲ」という性質があって、僕にはそれを識別することができないのだが、彼らにはできるのだと考えたほうが良い。例え、彼らが「ヘレゲゲ」がどういったことなのか、僕が納得できるように説明できないとしても。

ところで、僕たち日本人たちは、侘びの美を理解することができる。べつに、他の民族にはそうすることが実際にできないのだというつもりはないけど、仮定の話として、西洋人には侘びを理解することができないとしよう。しかし、前述のような理屈でもって、西洋人に侘びが理解できないとしても、彼らにとっても侘びの美は実在的であることになる。このような場合、しかし、僕たち日本人にとってはそれは実在的ではないのだ、というのは奇妙な話だろう。それが識別できない人にとっても実在的だと理解せざるを得ないような証拠があるのに、それを識別して、その証拠を提供している僕たち自身にとっては実在的ではない、というのは。

つぎに、芸術は進歩をするか、という話。僕は、芸術は進歩したことが少なくとも一回はあるといえると、考えている。それは、コード進行という概念が、明確なものとして作曲に取り入れられたとき。リズムやメロディといった音楽の要素の上に、コード進行という概念が加わった。このとき、人類は音楽についてのより深い理解に到達したのだといって良いと思う。