疑似科学批判・批判の補足

こういう状況を想像してみてください。

ある疑似科学的な主張が社会に流布し、信じこむ人がいて、効果のない医療方針によって疾病を悪化させる人が大勢でたとか、何か不都合なことが起きた。科学者が「疑似科学だ」と批判したところ、その主張者は「私たちは『科学的だ』と主張しているわけではない。これは非科学的ではあるけども、真理だ」と反駁した。そして、その主張を信じ込む人は減らず、やはり疾病を悪化させる人が減らないなど、不都合なことは継続したままである。

このとき、疑似科学批判は、何ができるのでしょうか? 主張者が非科学的であることを認めたから、それで満足なのでしょうか? もし、そうであるならば、疑似科学批判は社会の人々の不利益についてよりも、「科学」という名称の使い方、「科学」という縄張りについて関心があったのだといわれてもしかたないでしょう。

そうではなく、「彼らは、自ら『非科学的』だといっているが、実際には科学を装っている」というのでしょうか? それは言いがかりなのではないでしょうか。どうして彼ら自身がはっきりと否定していることを、彼らはそれを装っている、などといえるのでしょう。ビーカーや顕微鏡や温度計は科学の道具なので、科学者以外は手を触れてはいけない、それに手を触れることは科学者を装うことだ、とでもいうのでしょうか。それとも、およそ科学を装わないかぎり、大衆が何かを信じることなどありえない、よって大衆が信じている以上それは科学を装っているのだ、とでもいうのでしょうか。あるいは、理由はないが、彼らは疑似科学批判側が満足するまで、「科学とは言っていない」「科学とは言っていない」とオウムのように連呼する義務があるとでもいうのでしょうか。

もし、ここで疑似科学批判が、たんに「科学的事実」「事実の科学的な真偽」ではなく、端的に「事実」「事実の真偽」を問題にしていれば、こういったことには陥らないでしょう。つまり、「彼らは科学的には間違っている」というのではなく、端的に「彼らは間違っている」というのであれば、こういうことにはならないでしょう。しかし、実際には、穏健な伝統宗教や道徳や芸術などの科学以外の文化領域へのリップサービスのためにか、端的に「事実」「事実の科学的な真偽」といった問題提起の仕方をせず、ひたすら「科学」という名称の使い方にこだわっています。