疑似科学批判・批判

僕は、ウェブで見かける疑似科学批判に、不満を持つことが多い。一言でいえば、「科学」というレッテルの帰属を争うだけでは、たんなるセクショナリズムに過ぎない、という不満だ。

少なくとも論理実証主義者は、科学と非科学のセクショナリズムセクト主義のために、検証主義を唱えたのではない。あえて乱暴な言い方をすれば、彼らは、知識と非知識、事実と非事実、命題と非命題を区別する基準として、検証主義を唱えたのだ。だから、彼らにとっては「非科学的な知識」や「非科学的な事実」や「非科学的な命題」というのは一切存在せず、「科学的な知識」「科学的な事実」「科学的な命題」というのは過剰修飾である。彼らにとっては、信仰告白宗教告白も、道徳的主張も、詩も、まったく無意味(「無価値」ということではないが)。

彼らの志の高さを、いまの一般的な疑似科学批判はどれだけ受け継いでいるだろうか。それを受け継がないのに、検証主義を持ち出すのは欺瞞的ではないか。検証主義が、知識・事実・命題の基準なのではなく、たんなる「科学の作法」に過ぎないのであれば、それは伝統芸能や伝統的な職人技の擁護と、どこが違うのだ。

なるほど、江戸前寿司の職人がカルフォルニア・ロールは寿司ではないと主張するとしたら、矜持を感じる。それを非難するつもりはない。しかし、擬似科学批判が意図していることがそれでよいのか。それでは、まさに疑似科学とされた側が主張しているような、学界の保守的な体質のために新奇な説が受け入れられていないだけ、というのとどう違うのだ。

臆面もなく、科学のみが真理であり、検証可能な事実のみが事実なのであると主張して、宗教や道徳を罵倒するような疑似科学批判をいちど読んでみたいなぁ。