「大きな物語」

いわゆる「ポストモダン」を評して、「大きな物語の終焉」ということが言われる。

大きな物語の終焉」という表現には、ある世代のフランスの知識人にとっては、たんに抽象的な意味合いではなく、特定の二つの代表例への示唆が含まれているように思う。

キリスト教マルクス主義だ。キリスト教マルクス主義は、ともにある特別な未来である「歴史の終焉」を予言し、それとの関係によって現在を位置づけ、評価する。少なくとも、キリスト教マルクス主義も、その伝統的な形態はその側面を持つ。

キリスト教を信じ、そしてそれを信じなくなり、マルクス主義の予言した未来を信じ、そしてそれを信じなくなったという伝統に所属していると感じる人にとっては、「大きな物語の終焉」の「物語」というのは、まさに文字通り「物語」、始まりがあり、過程があり、結末のある物語なのだろう。


僕は、キリスト教を信じたこともないし、マルクス主義を信じたこともない。両方とも、とても興味深い思想史上のトピックだと思うが、少なくともそれらの未来の予言を信じたことはない。だから、ある世代のフランスの知識人が感じているだろう意味で、「大きな物語の終焉」というのを感じることがないと思う。


とはいえ、その僕も、「大きな物語の終焉」という言い回しから、ある示唆をえることができるように思う。それは、存在論的・認識論的議論に、「物語」、つまり未来の予言が持ち込まれることに用心深くあれ、ということだ。

ある人々は、キリスト教マルクス主義の約束する救済の「物語」を、存在論的・認識論的議論と混同したために、誤った方向に進んだということが言えるかもしれない。しかし、そういえるならば、分析哲学の伝統に属する哲学者達とて、同じ過ちを繰り返しているかもしれない。

科学的実在論を擁護するときに持ち出される、「未来の物理学」だとか「物理学の理論が収束する一点」だとかいうのは、いつ実現するか、どのように実現するかさっぱり分からない未来の予言、一つの「物語」ではないのか。それは、クーンが警告したことだろう。

自然主義的な道徳実在論者であるリチャード・ノイマンも、明確には述べないが、「道徳理論が収束する一点」のようなものを想定しているようにも思える。