循環論法と知識の全体論

循環論法は嫌われる。これにはもっともな理由がある。循環論法は、さまざまな偽なる命題を正当化するために使われてきた。

しかし、循環論法を擁護する、もっともな理由もある。

プラトン以来、哲学者は「知識の確実な基礎」を求めて苦闘してきたが、その中で分かったきたのは、「知識の確実な基礎」などなさそうだということだ。

知識は知識によって正当化されるならば、その正当化の連鎖は、(1)正当化の必要のない「知識の確実な基礎」によって止まるか、(2)無限後退に陥るか、(3)正当化が循環しているかのどれかであるが、(1)がないとして、(2)はあまりに秘教的でそのように正当化されるものを「知識」とは呼べないとすると、残るは(3)だけだ。よって、知識を正当化する僕たちの議論は、いずれ循環するべく定められている。


僕は、この反基礎付け主義・知識(又は信念)の全体論は正しいと思う。僕がそう思うようになった理由には、いろいろあり、一番大きなのは「観察の理論負荷性」を認めざるを得ないということだが、今はもっと単純な論拠を挙げられるように思う(よく考えたら、これは「観察の理論負荷性」の議論と同じものかもしれない)。


例えば、僕は、安部元総理が総理大臣を辞職したという知識(又は信念)を持っている。これは間接的な知識だ。マスメディアの行動や、TVの機能などについての僕の漠然とした知識が、何らかの理由で間違っているならば、安部元総理が総理大臣を辞職したという知識も間違っている可能性がある。

しかし、僕はその詳細を説明することができない。「マスメディアの行動や、TVの機能などについての漠然とした知識」ということは言えるが、あきらかに、その知識は複合的なもので、マスメディアに関わる個々の人々の精神についてや、TV局の内部組織や、電波の性質や、日本の地形や、ブラウン管やチューナーについての機能についての知識を含んでるか、少なくともそれと関わっている。しかし、それらがどういうもので、相互にどう関係しているかを、詳細に説明することができない。

ということは、僕は、そのような詳細な知識を持っていないということだ。

したがって、安部元総理が総理大臣を辞職したという僕の知識は、そのような知識を含んでいない。つまり、ある間接的な知識は、それがどう間接的なのかという知識を含んでいないということである。


では、逆に、僕はかなり直接的な知識として、今、目の前にパソコンのディスプレイがあることを知っているが、それはどう直接的なのだろうか? あるいは、それでもなお間接的なのだとして、それはどう間接的なのだろうか? 僕はそれについて漠然とした答えを持っている。しかし、それを詳細に説明することはできない。


結局、いかなる知識であれ、それがどう直接的なのか、どう間接的なのかについてその知識自体からは詳細なことはいえない。そうすると、そのようなことがいえないのに、ある知識が直接的か間接的かは、その知識だけから間違いなくいえるというがありえるだろうか? 僕は、ありえそうにないと思う。

つまり、その知識自体から、それが直接的であるといえるような知識はない。そして、そのような知識以外に「知識の確実な基礎」などありそうもないから、「知識の確実な基礎」はありそうにない。