道徳について

はじめに

中学生・高校生くらいを対象に想定して、今から、道徳についての話を書いてみようと思います。


ただし、これは「何々は道徳的に善い」「何々は道徳的に善い」という断定とか、命令とか、あるいは提案をするのが目的ではありません。

そうではなくて、道徳について批判的に考えるための知識やテクニックについてのガイドを書くつもりです。例えば、親や教師が「何々をするな」とか、「何々するのは悪い」とかあなたに命令したときに、あなたが親や教師に反論するためのテクニックを教えようと思います。


もっとも、僕も他の大人と同じように、自分の意見を持っています。そして、この話の最後には、自分の意見を書くことになるでしょう。

というのは、他の人々の意見に反論するテクニックを教えておいて、自分の意見はまったく人の反論に晒そうとしないのは、多少は卑怯なことだと思えるからです。


でも、僕がこの文章で目標としているのは、そういう僕の意見を受け入れてもらうことではなく、僕の意見に対しても上手く反論できるようになってもらうことだということは、忘れないでください。


「人を殺してはいけない」は正しいのか?

教師が「人を殺してはいけない」と、学校であなた達に教えたとします。

これに反論するテクニックについて考えていきます。


反論のための第一歩は、「先生は、それを誰に教えてもらったんですか? それとも、自分で発見したんですか?」と尋ねることです。

教師がきちんと答えられないようなら、「知識というのは、誰かに教えてもらうか、自分で発見する必要があります。どちらでもないのなら、それは知識ではありません」と続けるとさらに強力です。

テクニック1
知識の出元を確認する。


さて、教師が「先生も、学校の先生に教えてもらった」と答えたとしましょう。

これには、どう反論すればよいでしょうか?

その場合は、例えば「では、その先生も、また別の先生に教えてもらったということですよね。そうすると、先生はその先生に、その先生は別の先生に、その先生はまた別の先生に… と続いてしまいませんか?」と質問すれば良いのではないかと思います。

「先生はその先生に、その先生は別の先生に、その先生はまた別の先生に…」というような、あることの説明がまた別の説明を必要とし、その別の説明がさらに別の説明とする、というふうに永遠に続いていってしまうことは無限後退と呼ばれています。

テクニック2
説明の無限後退になっていないか確認する。


さっきは、「先生は、それを誰に教えてもらったんですか? それとも、自分で発見したんですか?」と尋ね、「先生も、学校の先生に教えてもらった」と教師が答えた場合を考えました。

では、逆に、教師が「自分で発見した」と答えたとします。

この場合は、どうやって反論すれば良いでしょうか?


そのときは、「それをどうやって発見したんですか? 発見というのは、目で見たり、耳で聞いたりして、データを集めて行うものです。『人を殺してはいけない』ということは、目で見たり、耳で聞いたりして発見できるようなものなのですか?」と聞き返せば、反論になります。

テクニック3
データに基づいて発見したのか確認する。


まとめ

  • 知識の出元を確認する。
  • 説明の無限後退になっていないか確認する。
  • データに基づいて発見したのか確認する。

「発見」について

さきほど、「発見というのは、目で見たり、耳で聞いたりして、データを集めて行うものだ」ということを書きました。

しかし、「人を殺してはいけない」と言った教師が、もし「データを集めなくても、発見をすることができる」と反論したらどうでしょうか?

どうして、発見をするためには、目で見たり、耳で聞いたりして、データを集めなければならないでしょうか?


少し難しい話になりますが、自然科学の原理に物理的領域の因果的閉包性というものがあります。

物理的領域の因果的閉包性というのは、物理的な結果には物理的な原因がなくてはならず、また物理的でない原因はありえない、というものです。

さて、人間は心で感じ、考えます。

でも、あなたがボールを投げようと思えば、腕がボールを投げて、ボールが飛んでいきます。

ボールが飛ぶことは物理的な現象です。その原因の腕がボールを投げるというのも物理的な現象です。すると、その原因であるあなたがボールを投げようと思うことも、物理的な現象のはずです。

これが、物理的領域の因果的閉包性です。


また、自然の斉一性という自然科学の原理もあります。

自然の斉一性とは、科学法則はいつでも、どこでも、誰においても変わらない、というものです。

ですから、体を動かさずにボールを飛ばすことができる人が今いないならば、たぶんいつの時代にも、どこの場所にも、そういうことができる人間はいないでしょう。


では、話を戻します。どうして、発見をするためには、目で見たり、耳で聞いたりして、データを集めなければならないでしょうか?

発見も、人間の心が行うことです。

でも、物理的領域の因果的閉包性と自然の斉一性からは、その人間の心が行う発見も物理的な原因によるものだということは明らかです。


ですから、心で何かを発見するためには、その何かから光が来ているとか、音が来ているとかいう物理現象がなくてはいけません。そうでなくては、人間は、その何かを知ることができないのです。

つまり、発見を行うためには、目で見たり、耳で聞いたりする必要があります。

テクニック4
物理的領域の因果的閉包性と、自然の斉一性に基づいて考える。


まとめ

  • 物理的領域の因果的閉包性と、自然の斉一性に基づいて考える。

本能で説明できるか?

教師が、「『人を殺してはいけない』というのは本能だ。だから、人間はそれを知ることができるし、従わなくてはいけない」と説明したとします。

これに、どう反論すればよいでしょうか?


ある軍隊の訓練教官の話では、生きた人間を銃で撃てるように兵隊を訓練するのは難しいそうです。たしかに、人間は基本的には人間を殺すことをいやがる本能を持っているのかもしれません。


しかし、ここでチンパンジーの本能に目を向けてみます。

チンパンジーは群れで生活し、一匹のオスのボスが何匹ものメスを従えて、何匹ものメスに自分の子どもを生んでもらう生活をしています。そこで、他のオスは今のボスを倒して、自分が群れのボスになって、何匹ものメスに自分の子どもを生んでもらおうとします。

動物学者の話では、前のボスを倒して新しくボスになったチンパンジーは、前のボスとメスの間の赤ちゃんを殺してしまうことがあるそうです。


僕は、そのビデオを観たことがあります。

赤ちゃんのお母さんチンパンジーは泣き叫んで必死に赤ちゃんを守ろうとしますが、新しいボスは赤ちゃんをの腕の握り、赤ちゃんを何度も何度も地面に叩きつけて、血まみれにして殺しました。

新しいボスは自分の子どもを産んで育ててもらいたいのであって、前のボスの赤ちゃんを守る理由があまりありません。さらに、チンパンジーのメスは、小さい赤ちゃんを育てている間は、次の子どもを生むことができません。

したがって、新しいボスは自分の子どもを生んでもらうために、前のボスの赤ちゃんには死んでもらったほうが都合がよい場合があるわけです。


これはチンパンジーの行動の話であって、人間の行動の話ではありません。チンパンジーと人間は、いろいろと違います。例えば、人間は赤ちゃんがいても、次の赤ちゃんを妊娠することができますから、人間の場合は前の赤ちゃんを殺す必要はありません。

しかし、テレビや新聞を観ていると、再婚した夫婦の夫が、妻と前の夫の間の子どもを殺してしまうという事件があります。あれは本能に基づくものではない、と言い切れるでしょうか。

そして、それが人間の本能だとすれば、人間は人間の本能に従えばそれで良いのだ、といえるでしょうか。


この節のはじめに書いたように、人間には他の人間を殺したくないという本能があるのかもしれません。その可能性はあると思います。

しかし、それと「本能だから従え」というのとは、また別の話です。

甘いものを食べたいというのは人間の本能に間違いないと思いますが、だからといって甘いお菓子を万引きしなければならないのですか? そういうことにはならないでしょう。


法律で説明できるか?

別の可能性を考えてみましょう。

「人を殺してはいけない」と言った教師が、「『人を殺してはいけない』というのは法律で決まっている。だから、従わなくてはいけない」と説明したとします。

「人を殺してはいけない」というのは、刑法という法律の199条というところにあります。厳密にはちょっと微妙ですが、たしかに書いています。


これに、どう反論すればよいでしょうか?

「でも、どの法律のどこにも、一般的な意味で『法律に従え』とは書いていません。それならば、どうして、『法律に従わなければならない』と言えるのですか?」と反論することができます。

ちなみに、どの法律のどこにも一般的な意味で「法律に従え」とは書いていない、というのは本当のことです。


そもそも、刑法199条の殺人罪も、その法律を作った人はそれが道徳に合っていると思ったから、殺人罪を法律にいれたわけです。

つまり、道徳が法律を作ったのです。


ところで、殺人罪を罰するのは刑法という法律の199条だということを書きましたが、じつはこの法律には、200条がありません。199条の次は、201条になっています。

200条はもともとはあったのですが、大雑把に言えば、人々の道徳観が変わったために、削除されました。

ここでも、道徳が法律を変えていっています。


法律で道徳を説明しようとしたら道徳で法律を説明しなくてはならない、道徳で法律を説明しようとしたら法律で道徳を説明しなくてはならない、というように、AでBを説明して、BでAを説明して、またAをBで説明してというように循環が無限に続いていってしまうことを、循環論法と呼びます*1

テクニック6
循環論法になっていないか確認する。


まとめ

  • 循環論法になっていないか確認する。

感情によって説明する

本能による道徳の説明、法律による道徳の説明の二つは、比較的、誰でも思いつくものです。しかし、この二つは、どちらも反論できるということを確認しました。


そうすると、道徳とは何でしょう?

それは、人間の感情ではないでしょうか。人間が「嫌だ」と思うものを「それは道徳的に悪い」と言い、人間が「好きだ」と思うものを「それは道徳的に善い」と言っているだけではないでしょうか?

この説明はそれなりに納得できるものです。また、世の中でも、それなりに受け入れられているように思います。


世の中には、いろいろな道徳の説明について、分類したり、比較したりして研究している倫理学者という人たちがいます。

この倫理学者たちは、「道徳の主張は感情の表明だ」という理論を「情動主義(情動説)」と呼んでいます。


教師への反論の結論は、この情動主義(情動説)でとりえず十分でしょう。

もし「人を殺してはいけない」と言う教師がいれば、ここまでにしたような説明をして、「というわけで、『人を殺してはいけない』というのは知識ではありません。たんなる感情です」というので、いちおう反論の結論にすることができます。


プロの理論

ここまででは、「道徳の主張は感情の表明だ」という情動主義が、いちおう反論の結論になるという話をしました。しかし、話はここで終わりではありません。

さっき、書いたように世の中には、いろいろな道徳の説明について、分類したり、比較したりして研究している倫理学という学問があります。


さて、倫理学者は、いうならば道徳を研究するプロの人たちなのですが、その中には「道徳の主張は感情の表明だ」という情動主義はやはり間違っているのではないか、という意見の人たちが大勢います。

なぜ、プロの人たちは、「道徳的の主張は感情の表明だ」という情動主義に反対するのでしょうか?


僕がはじめに、親や教師が「殺人はしてはいけない」とかあなたに命令したときに、あなたが親や教師に反論するためのテクニックを教えるということを約束しました。

しかし、それだけではなく、もっと広く、道徳について批判的に考えるための知識やテクニックについてのガイドを書くつもりだということも約束しました。

その約束を果たすためには、素人の理論だけを考えているのではなく、プロの理論についても考える必要があります。


倫理学者による情動主義への反論に入る前に、いかにもプロっぽい分類の話をしましょう。

まず、倫理学は「規範倫理学」と「メタ倫理学」に分かれます。ここでは、話の都合上、「倫理思想史」も倫理学の中に入れましょう。


一つ目の規範倫理学とは、道徳の研究のプロと言ったときに真っ先にイメージするような、「何々は道徳的に善い」「何々は道徳的に悪い」ということを研究しています。


二つ目のメタ倫理学とは、「何々は道徳的に善い」「何々は道徳的に悪い」ということを言っているときは、僕たちは本当は何について言っているのか、それは本能について言っているのか、法律について言っているのか、感情について言っているのか、ということを研究しています。

そして、もし、道徳が感情なのだとしたら、では人間の感情とはどうなっているのかという話になりますが、それはメタ倫理学の中ではしません。

メタ倫理学は、本能について言っているのか、法律について言っているのか、感情について言っているのかということが分かれば、それで終わりです。


三つ目の倫理思想史とは、これまでの歴史を振り返り、昔の人たちは道徳をどんなものだと考えていたのか、ということを研究します。

倫理思想史では、二千年以上昔のプラトンアリストテレスという人々、百年以上昔のカントやニーチェという人々、中国では孔子などといった人たちが残したものを研究します。


メタ倫理学

今の話は二番目のメタ倫理学に関わる話なので、メタ倫理学について紹介していきます。

さて、メタ倫理学の中にも分類があります。大雑把な分類として、メタ倫理学の中には、次のようないろいろな見解があります。


ごく簡単に紹介しておきましょう。


まず、一番大きな分類として、客観主義と主観主義に分かれます。

客観主義は、「『○○は善い』というような道徳的主張は、客観的な知識だ」と考えます。

客観主義の中の直覚主義は、「『○○は善い』というような道徳的主張は、客観的な知識だ。しかし、それは自然現象から発見するのではない」と主張します。

客観主義の中の自然主義は、「『○○は善い』というような道徳的主張は、客観的な知識だ。それは、自然現象から発見できる」と主張します。

さっきの例で学校の先生が「道徳は本能だ」と言ったときの立場は自然主義の一種ですが、自然主義には他にもいろいろあります。


主観主義者は、「『○○は善い』というような道徳的主張は、客観的な知識ではありえない」と考えます。

主観主義の中には、情動主義と指図主義が含まれます。


情動主義への反論

情動主義とは、さっきから述べているように「道徳の主張は感情の表明」だという理論です。

この情動主義への反論に入ります。


道徳には、論理があります。

例えば、「人間の自己決定権を妨げることは、悪い。殺人は、人間の自己決定権を妨げる。よって、殺人は悪い」というのは論理的です。これが論理的だということは、ほぼ反対の余地がありません。

情動主義は、この道徳が持っている論理性を説明できません。人間が道徳について話しているときに、好きや嫌いという感情や、怒りや悲しみ、喜びなどの感情をぶつけ合っているだけなのならば、論理的ではないからです。


よって、情動主義は道徳の説明に失敗している、と言えるわけです。


指図主義

では、情動主義が道徳の説明に失敗しているのならば、どう考えれば良いのでしょうか?

一つの選択肢は、指図主義です。


指図主義は、「人間の自己決定権を妨げることは、悪い。殺人は、人間の自己決定権を妨げる。よって、殺人は悪い」というのが論理的だと認めます。

しかし、指図主義者に言わせれば、それは論理的なだけです。論理的だからといって根拠があるわけではありません。


例えば、「犬は空を自由に飛ぶ。ポチは犬だ。よって、ポチは空を自由に飛ぶ」というのは完璧に論理的ですが、根拠がありません。なぜなら、前提である「犬は空を自由に飛ぶ」というのに根拠がないからです。


これを、「人間の自己決定権を妨げることは、悪い。殺人は、人間の自己決定権を妨げる。よって、殺人は悪い」というのに当てはめれば、「人間の自己決定権を妨げることは、悪い」という前提に根拠があるのか? という話になります。

指図主義者は、「人間の自己決定権を妨げることは、悪い」というのには根拠があるかもしれないが、それにはまた別の根拠が必要で、そして別の根拠にはさらに別の根拠が必要で、と無限後退か、循環論法になるだろうと考えます。

すると、結局、最終的な根拠はないわけです。


このようにして、指図主義は、道徳が論理的だということは認めますが、道徳が根拠のある知識、つまり客観的知識だということは否定します。

だから、指図主義は「『○○は善い』というような道徳的主張は、客観的な知識ではありえない」という非認知主義に分類されるわけです。

功利主義(1)

ここまでの説明で、指図主義がどうも良さそうだ、と考えた人が多いのではないでしょうか。

しかし、功利主義という説得力のある議論もあります。


功利主義は「善と快楽は同じものだ」と考えます。つまり、気持ちよいこと道徳的に善いことだと考えるわけです。


例えば、次のような状況を想像してみてください。

100人の病人がいます。


Aという薬を使えば90%の人が治り、Bという薬を使えば10%の人が治ります。しかし、材料の都合で、AかBのどちらかしか作ることができません。


そこで、ある役人は、Bの薬を作ることに決めました。

この役人はアホだと思いますせんか? 僕はアホだと思います。Aの薬を作ることに決めれば90人が治るのに、Bの薬を作れば10人しか治らないからです。


では、次のような状況ではどうでしょうか。

100人の病人がいます。


Aという薬を使えば90%の人が治り、Bという薬を使えば10%の人が治ります。しかし、材料の都合で、AかBのどちらかしか作ることができません。


そこで、ある役人は、Bの薬を作ることに決めました。(ここまでは上と同じです。)


この役人がBの薬を作ることに決めたのは、Bの薬を作る人から100万円をもらったからです。

あなたは、この役人はアホでないかもしれないが、悪い奴だと思いませんか? 僕は、悪い奴だと思います。自分が100万円を貰ったからといって、いうなれば80人の人を見殺しにしているからです。


さて、しかし、「僕は悪い奴だと思う」とか、思う・思わないの話だけをしていては仕方がありません。

もっとも、情動主義ならそれでO.K.だというかもしれません。しかし、それは逆に、情動主義の役に立たなさを証明しているわけです。


功利主義は、ここのところをキチンと説明できます。

この病気が治る、治らないというのは、快楽に関わるものです。病気が治れば快楽が高まります。Aの薬なら90人の快楽が高まります。Bの薬なら10人の快楽が高まります。

100万円をもらってBの薬を作ることに決めた役人は、自分は快楽が高まったかもしれません。しかし、Aの薬を作ったほうが患者の快楽が高まり、そちらのほうが合計としては大きいので、「善と快楽は同じものだ」という功利主義の立場からは、Bを作ることは道徳的に悪い行動なわけです。


数式に直したほうが、分かりやすいでしょう。Aの薬を作ることに決める決定をaとし、Bの薬を作ることに決める決定をbとします。そして、患者は病気が治ればxの快楽を得、賄賂をもらう人はyの快楽を得るとします。

aを選択したときの快楽の合計 = 90x
bを選択したときの快楽の合計 = 10x + y

このため、どちらの薬を作るか決める役人は、aのほうを選択するべき、つまりAの薬を作るように決めるべきなのだ、と功利主義は考えます。


功利主義(2)

数式にすれば説明が明確になり、分かりやすくなります。しかし、曖昧な説明には反論が難しいのですが、明確な説明には明確な反論がすることができます。


頭の良い人は、つぎのような反論をするかもしれません。

「もし、もらう金額が物凄く高ければ、それををもらうことがすごく快楽を高めるので、y > 80x になることがあるのではないか? 例えば、1億円をもらうと役人の快楽はものすごく高くなって、y > 80x になるかもしれない。その場合は、Bの薬を作るように決めるべきだ、ということになるのではないか?」という反論です。

これは、100万円だからどうだ、1億円だからどうだ、という反論ではありません。100万円とか1億円とかいうのはたんなる例えで、いくらになるか分からないがとにかく「y > 80x」になる金額があるはずだ、ということがポイントです。


しかし、この反論にはおかしなところがあります。

功利主義者は、「10x + y」という数式でも明らかなように、一人一人が自分の快楽を高めることが道徳的に善いことだと考えているのではなく、社会全体の快楽を足し算したときにもっとも社会全体の快楽を高めることが道徳的に善いことだと考えているのです。


では、社会全体について考えてみましょう。

上の「10x + y」という数式には、見落としていることがありました。お金をもらった人が快楽が高まるならば、お金を贈った人の快楽が下がるはずです。賄賂を贈った人も、お金がもったいないはずだからです。

同じだけのお金がやりとりされたら、貰った人の快楽の上がった分とだいたい同じくらい、あげた人の快楽は下がると予想することができます。これは金額が高まれば高まるほど、だいたい同じ、というのが、ほとんど同じというようになっていくでしょう。


このことを考慮に入れたら、上の計算は次のように修正されます。

aを選択したときの快の合計 = 90x
bを選択したときの快の合計 = 10x + y - y' (ただし、y ≒ y')

これなら、ほぼ文句なく、aを選択するべきだと言えます。お金をもらった役人の快楽が上がった分は、お金を贈った人の快楽が下がった分で帳消しできるわけです。


以上のように、このように功利主義者は、行動を選択するその人の快楽の高さによってどちらが道徳的に善いかが決まると言っているわけではなく、社会全体の快楽の合計がどう高まるかによって決まるといっているのです。


また、以上の議論は、説明を数式に置き直して明確にすることによって、反論も、それへの再反論も明確になりました。

だから、道徳ついて考えるとき以外もそうですが、何かをキチンと考えるためには、もともとの説明を明確化するための努力をする必要があります。

テクニック7
説明を明確化する。


ただ、この点について、少し注意が必要です。説明というのは、ただ数式を使えばそれで明確になるというものではありません。数式を使っても、不明確な説明というのはあります。

実際、功利主義の説明は「『10x + y - y'』というような数式は良いとしても、そもそも、その『x』とか『y』とかの具体的な量をどうやって調べれば良いのか分からない」という反論にあいました。


まとめ

  • 説明を明確化する。

功利主義(3)

ちなみに、功利主義は、すでにあげた分類には含まれていませんでした。


普通、功利主義は、認知主義の中の自然主義、その自然主義の中の一種として分類されているようです。


しかし、この分類のおおもとの形を作ったヘアという倫理学者がいるのですが、ヘアは功利主義を指図主義の発展形だと考えていました。


僕は功利主義自然主義の一種だと思いますが、功利主義自然主義者からも認められるし、指図主義者からも認められる余地のある、説得力のある議論だということかもしれません。

また、歴史的にみて、功利主義は少なくとも千年以上の昔から、現代まで続く長い歴史を持っています。これもまた、功利主義の説得力をうかがわせます。こういうことは、上であげた倫理思想史というサブジャンルの研究で分かります。

思考実験

では、功利主義にも反論しましょう。


次のような状況を想像してみてください。

X国では、功利主義が国民に支持されています。また、国民の福祉に力を入れており、常に国民全体の幸せを考えた政策がとられています。


そのX国で、次のような法律が成立しました。

  1. 毎年1月1日に、心臓の移植をしなければ近く死んでしまう患者がいるか確認する。
  2. 同時に、両肺の移植をしなければ近く死んでしまう患者がいるか確認する。
  3. 同時に、どちらの患者にもそれぞれ必要な心臓と両肺を提供できる健康な人がいるか確認する。
  4. 上記のような患者二人と健康な人が一人いるならば、健康な人を殺す。
  5. どちらの患者にも間に合うように移植する。

功利主義的に考えれば、この法律は、道徳的に善い法律です。一人分の快楽が減って、二人分の快楽が増えるのですから。しかし、よほど変な人でなければ、この法律が道徳的に善いとはとてもいえないでしょう。

このため、功利主義は道徳の説明としては、おかしなところ、少なくとも足りないところがあるという考えが説得力を持ってきました。


ちなみに、これは、ジョン・ハリスという人の「サバイバル・ロッタリー」というアイデアをもとにしたものです。

ハリスもこういう法律を作ったほうがよいということを言うために、このアイデアを出したのではなく、こういう法律はおかしいのだから功利主義にはおかしなところがある、ということをいうために、このアイデアを出したのです。


こういう現実にはないけれども、ありえないわけではない想像をして、それもできるだけ厳密に想像をして、ある理論を論破するテクニックを「思考実験」といいます。頭の中で実験をしているようなものだ、ということです。

テクニック8
思考実験を行う。


思い出してみれば、二つ目の説明の無限後退に陥っていないか確認するというテクニックを紹介したときも、「先生はその先生に、その先生は別の先生に、その先生はまた別の先生に…」と思考実験を試みて、それは成り立たないという結論を出したのでした。


とはいえ、「思考実験なんて、所詮は想像ではないか。想像するだけで、反論になるのか?」と考える人がいるかもしれません。たしかに、本当に実験をして確認ができるのならば、本当の実験が優れています。

しかし、じつは物理学の発展にも思考実験は貢献しています。ガリレオの落体の法則の発見は、思考実験によるものです。(ピサの斜塔から重い鉄球と軽い鉄球を落とすという実験をしたというのはただの伝説のようです。)

ここで、重い鉄球Aと軽い鉄球Bを考えます。もし、「重いものが軽いものよりも早く落ちる」が正しいのなら、AはBよりも早く落下します。


そこで、AとBを髪の毛一本でつないだとしましょう。そうすると、AはBより早くおちるわけですから、髪の毛は両方にひっぱられて千切れてしまいます。


今度は、丈夫な鎖でAとBをつないだと考えます。そうすると、鎖は千切れませんから、AとBはお互いに引っ張り合い、Aの落下速度とBの落下速度の中間くらいの速度で落下するでしょう。


しかし、「AとBを鎖でつないだ全体」は、AとBのどちらよりも重いはずです。そうすると、これはAとBのどちらよりも早く落下しなければなりません。


このようなわけで、「重いものが軽いものよりも早く落ちる」は矛盾しています。

この思考実験はガリレオが実際に書いたものを変更していますが、ガリレオはだいたいこのような思考実験をして、「重いものが軽いものよりも早く落ちる」という考えが間違っていることを説明し、落体の法則を証明しました。


思考実験は、たしかに想像にすぎません。想像ではなく、本当にに実験できるのならば、そうしたほうが良いでしょう。

しかし、道徳について考えるためには、あまり無茶なことを実際にやってみたり、あまり無茶な法律を実際に作ってみたりすることは難しいですから、思考実験はたんに理屈だけで考えるよりは、マシな方法を提供してくれると言ってよいでしょう。


まとめ

  • 思考実験を行う。

堕胎の是非(1)

応用倫理学と呼ばれるジャンルもあります。

応用倫理学から、現在も激しい議論が続いている、すごく難しい具体例を挙げます。


それは「堕胎(お腹の中にいる赤ちゃんを殺すこと)は、絶対にやってはいけないのか?」というものです。


これは、胎児は人間かどうか、ということを中心に議論されてきました。

もし、胎児が人間ならば、堕胎は殺人です。そうすると、「殺人をしてはいけない」ということが正しく、胎児が人間ならば、堕胎はやってはいけないことです。例外があるとするならば、胎児を殺さなければ、母親の健康が悪化して死んでしまうような特殊な状況だけでしょう。

逆に、胎児は人間ではない、という意見もあります。胎児は、まだ生まれておらず、自分で移動することもせず、自分で呼吸することもなく、栄養をとることもありません。それならば、胎児は母親の一部であって、まだ一人の人間ではないのではないでしょうか。

もし、胎児が人間ではないのならば、少なくとも「殺人をしてはいけない」ということ自体と、堕胎は矛盾しません。


こうして、胎児は人間かどうか、ということが議論のポイントだと多くの人が考えていました。しかし、その状況に一石を投じた思考実験があります(これももとの思考実験に手を加えています)。

あなたは、病気になった友人のお見舞いのために病院に行きました。友人を勇気付け、いろいろと話したあなたは少し疲れたので、友人のベッドの横のベッドに座っているうちに、ウトウトしてきて、眠ってしまいました。


目が覚めたあなたは、病院の別の部屋でベッドに横になり、体に管を取り付けられていました。その管は、隣のベッドで寝ている知らない人の体につながっています。


あなたは、あわててナースコールをして看護士を呼び、事情を説明してくれるように頼みました。看護士は、次のように説明しました。


「じつは、あなたがベッドで眠ってしまった後、あなたの友人は検査のために病室を出ました。その後、その病室に行った医師が、勘違いをして、あなたに手術をしてしまいました。」


「その手術は新しく開発されたもので、あなたの血液を、今あなたの横のベッドで寝ている人に循環させるというものです。その人は、今は意識がなく、自分で呼吸もできず、栄養もとれませんが、10ヵ月後には意識を回復し、自分で呼吸し、栄養を取ることができます。」


「今すぐ、あなたをその人から切り離す再手術をすることはできます。しかし、その場合は、その人は確実に死にます。」

さて、こういう状況下で、あなたは隣のベッドの人を生かし続けるためにつながれたままで居なくてはならないのでしょうか? また、そういう状況に僕がおかれたとしたら、僕はつながれたままでいる義務があるのでしょうか?

たしかに、そういう状況下でつながれたままでいることを選択する人は、道徳的に立派だと思います。しかし、問題は、どちらが道徳的により善いかということではなく、そういう選択をする道徳的な義務まであるのか、ということです。


「ある」と言い切れる人もいるでしょう。

「ない」と言い切れる人もいるでしょう。

「ある」とも、「ない」とも言い切れない人もいるでしょう。


しかし、ともかくこの思考実験によって、堕胎が許されるのかどうかという問題に、胎児は人間かどうか以外の視点が持ち込まれました。

それは、上のような状況において、再手術をして管をはずしてもらうことが道徳的に決してやってはいけないといえないのならば、胎児が人間だとしても、堕胎は決してやってはいけないとはいえないのではないか、というものです。


堕胎の是非(2)

世の中には、堕胎の模様を録画したビデオテープがあります。僕はそれを観たことがありますが、その内容は次のようなものです(ただし、僕がこのテープを観たのはだいぶ以前のことなので、記憶違いがある可能性は小さくありません)。


エコーソナーという機械を胎児のいるお腹にあてれば、お腹の中の胎児をぼんやりと見ることができます。そのテープでは、そのまま、堕胎が始まります。

大きくなりすぎた胎児を堕胎するためには、お腹のなかで胎児を切断する必要があるようです。

お腹の中に刃物が入ってきて、胎児はびっくりして動き回ります。そして、さらに動きがあり、「いま、脚を切りました」というような解説が続きます。


このテープは、別のシーンも録画しています。

そのシーンでは、掃除機のような機械に細いホースをつけて、胎児を吸い出します。機械は掃除機のようにガタガタと振動し、透明のビーカーのような部分に血みどろのものがドボドボと落ちていきます。


このテープのおかげで、僕は、強いショックを受けました。しかし、このテープは、堕胎反対派が堕胎が残酷であることを強調するように作ったものでしょう。もともと、人にショックを与える編集意図があるので、残酷なシーンを集めているわけです。

しかし、そういう編集意図があったとしても、僕がある事実を知り、その事実にショックを受けたことはたしかです。


さて、僕は、そういうショックを受けるような事実を知らなかったほうが良かったのでしょうか? そういう偏った編集意図を持ったビデオテープを見なかったほうが、堕胎の問題についてよりよく判断することができたのでしょうか?

僕は、そうは思いません。ある問題について考えるときは、それに関係する事実はできるだけ知っておくべきだと思います。


道徳の問題に答えがあるのかどうか、あるとしてもそれが正しいことなのかどうか、ということは難しい問題です。また、堕胎の問題など具体的な問題を考えても、なかなか答えは分かりません。

しかし、少なくとも、答えがあるのかないのかということをひっくるめて、事実に基づいて判断することは、よりマシに判断したと言えるのではないでしょうか。

テクニック9
事実を知る。


僕ははじめに、この文章は中学生・高校生を対象に想定する、と書きました。中学生や高校生は繊細なので、あまりに残酷な話だと言う人がいるかもしれません。また、僕は男なので、僕が受けるショックの度合いと女の人が受けるショックの度合いは違うのだ、ということをいう人がいるかもしれません。

どちらも、たしかに、そのとおりかもしれません。少なくとも、そういう傾向はあると思います。


しかし、中学生や高校生にもなれば、数学や歴史や科学の授業も高度になり、教師はよく「自分の頭で考えろ」と言います。それならば、道徳についても、やはり自分の頭で考えてみる必要があるのではないでしょうか。

そして、事実を知らずに道徳的な判断をしろ、というのは無理な話だと思います。


まとめ

  • 事実を知る。

テクニックの整理

ここまでで、八つのテクニックも紹介しました。そのテクニックは、次のとおりです。

  1. 知識の出元を確認する。
  2. 説明の無限後退になっていないか確認する。
  3. データに基づいて発見したのか確認する。
  4. 物理的領域の因果的閉包性と、自然の斉一性に基づいて考える。
  5. 循環論法になっていないか確認する。
  6. 説明を明確化する。
  7. 思考実験を行う。
  8. 事実を知る。


この八つのテクニックには、重なっているところがあります。それどころか、少し無理をすれば、二つテクニックにまとめなおすことができる思います。

3、8は「事実に基づいて考える」ということですし、2、5、6、7は「合理的な説明をする」ということだと言えるでしょう。1と4は、両方に関わります。

テクニックA
事実に基づいて考える。
テクニックB
合理的な説明をする。


この二つのテクニックは、メタ倫理学においてどのような立場をとろうと、また具体的な倫理的問題においてどちらの立場に立とうと、いちおう認めることができるものだと思います。


また、世の中には、道徳に反発を感じてあえて悪人であろうとする人もいます。しかし、そのような人でも、そのような人であるからこそ、愚かでいたいとは思わないではないかと思います。


まとめ

  • 事実に基づいて考える。
  • 合理的な説明をする。

道徳的無能力主義

二つのテクニックを紹介、あるいは提案しました。これは、最初に書いたように、道徳について批判的に考えるテクニックです。

  1. 事実に基づいて考える。
  2. 合理的な説明をする。


しかし、この二つのテクニックに反対するような立場は、ありえないのでしょうか? 

僕の考えでは、もしかしたら、室町時代のお坊さんである親鸞の立場は、突き詰めれば上の二つのテクニックの両方を否定することになるかもしれないと思います。


親鸞はお坊さんですから宗教的に考えていますが、親鸞の考え方の中核にあるのは「僕達には宗教的に善い人である能力がない」というものです。彼は、次のような言葉を残しています。

「念仏をしたとしても、それは自分の行いではない。また、善ではない。自分で行っているのではないのだから。(阿弥陀仏が僕達を助けるために行わしめている)」

「もし、師匠に騙されていて、念仏をしても地獄におちることになっていたとしても、後悔はしない。どんな善行もできない自分なのだから、もともと地獄におちるのは当然なのだ」


これは、一つの強烈な立場です。

宗教的に正しいことなどないのだ、すべては自分の主観なのだと考えているわけではありません。そうではなくて、宗教的に正しいことはあるのだけど、それは自分には実行不可能なんだ、というものです。


もっとも、親鸞は宗教家なので、宗教的な枠組みでものごとを考えていました。ですから、今、僕が考えているような非宗教的な道徳についても、同じように考えていたのかは、正直なところはよく分かりません。

しかし、非宗教的な道徳についても、一つの立場としては、自分に道徳的な能力がないことを認めるという立場がありえると思います。

これを、ここでは道徳的無能力主義と呼ぶことにします。

そして、道徳的無能力主義からは、「事実に基づいて考える」「合理的な説明をする」という二つのテクニックを否定することになるのかもしれません。


しかし、ここで別の視点を指摘しておきたいと思います。

親鸞は、上のような結論に至るまでは、考えに考え、いろいろな文章を読み、いろいろな人の意見を聞いて、さらに考えに考えました。

また、彼は、自分の弟子が疑問を持ったときには、自分がなぜ、どう考えて上のような結論に至ったのか、すごく丁寧に説明しました。考えても無駄だからひたすら信じろ、と弟子に命令するような人ではなかったようです。

到達した結論はともかく、それまでに至る過程においては、彼も「事実に基づいて考える」「合理的な説明をする」ということを徹底的に実行したのです。


仏教の話を出したので、公平のために、他の宗教であるキリスト教の例も挙げておきます。

キリスト教宗教改革者ルターが、親鸞の考え方に近いと言われています。しかし、ルターの場合も、徹底的に考え、調べ、悩みに悩んだあげくにその結論に到達しました。また、ルターも他の人に自分の考えを丁寧に分かりやすく説明するために、かなり努力しています。


共同体主義

ここまでいろいろな「〜〜主義」を紹介しましたが、ここで最後の「〜〜主義」を紹介します。それは、共同体主義です。


共同体主義は、僕たちの道徳観は、共同体の先祖たちから受け継いだものなのだということを強調します。大雑把に言えば、ドイツ人はドイツの伝統から、中国人は中国の伝統から、日本人は日本の伝統から道徳観を受け継いだ、ということを強調します。

共同体主義者も、「事実に基づいて考える」「一貫性のある合理的な説明をする」ということを否定するわけではないでしょう。

しかし、彼らは、その根底に共同体の道徳観があること、またあるべきであることを指摘するのです。


僕は、共同体主義の指摘はかなり正しいと思います。たしかに、僕たちは、ある共同体のなかで生きていますし、その共同体の道徳観を出発点にせざるをえません。


しかし、もし、共同体主義者が、次のような二つの極端な主張をしたとすると疑問が出てきます。

「だから、僕たちは共同体の道徳観を守るべきで、それを批判するべきではない」

「だから、別の共同体にはそれぞれの道徳観があるのであって、別々の共同体に属する人同士が道徳について分かりあえることはない」


そこまで言い切ってよいものでしょうか。僕は、そこまで言い切ってしまうと問題があると思いますが、その点についての詳しい話は省きます。


僕の意見(1)

この文章のはじめに、僕はこの文章の最後では、他の人の批判に晒すために、僕の意見を書くと約束しました。

そろそろその約束を果たします。


まず、問題を「道徳とはどういうものか?」ということと、「自分は社会の道徳に従う義務があるのか?」ということの二つに分けます。


道徳とはどういうものか?

人間は、自然現象として複雑な感情や欲求や必要を持っています。生きていくには空気がなくてはなりませんし、水も必要です。人に尊敬されたいとか、尊重されたいとか、実力を認められたいとかの欲求もあります。また、何かを好きなったり、嫌いになったり、怒ったり、悲しんだり、喜んだりする感情があります。

そのような人間の複雑な感情や欲求や必要を、自然現象の制約の中でどうやって満たしていけばよいのか、ということを解決するために、人間が発達させてきた技術が道徳だと、僕は考えています。


そして、「人を殺してはいけない」というのは、いろいろな例外があるけども、特殊な例外を除けば、いちおう道徳的に正しいと思います。

人間は、自然現象に対処して複雑な感情や欲求や必要をできるだけ満たすためには、できるだけ平和な社会を作ったほうがうまくいくということは、人間の歴史が教えてくれていることではないでしょうか。

そのような複雑な感情や欲求や必要を満たす社会を維持するためには、原則として「人を殺してはいけない」という道徳を持たざるをえないように思えるのです。


考えれば、はじめのほうで僕があえて批判した「道徳は本能だ」「道徳は法律だ」という意見は、それぞれ一理あると思います。

本能は、自然から僕たちに与えられた基本的な制約であることは否定できませんから、それを無視して道徳を発展させることはできません。

また、法律の発展が道徳の発展を反映し、そのことがまた道徳の発展を促すということで、法律が道徳の発展に役立っていることもまた否定できないと思います。


僕の意見(2)

二つ目の「自分は社会の道徳に従う義務があるのか?」ということについて、僕の意見を書きましょう。


「そういう義務はない」というのが、僕の意見です。

もちろん、社会の道徳からみれば、僕には社会の道徳に従う義務はあるかもしれません。しかし、それは循環論法です。その社会の道徳の要求に対して、社会の道徳以外の何かの根拠でもって、僕に社会の道徳に従う義務があるのかといえば、それはないと思います。


もっとも、僕はほとんどの場合に社会の道徳を尊重しますし、従います。

なぜなら、社会は人々の感情・欲求・必要を満たすために道徳という技術を発展させてきたのですから、僕の感情や欲求や必要も社会の中でバランスよく満たしてくれるように、ほとんどの場合はなっているはずだ、と考えているからです。

また、僕の欲求・感情・必要を道徳が満たしてくれない場合は、僕はその部分を変えるように社会に提案することができます。多くの人がなるほどと思えば、実際に社会の道徳は変わっていくでしょう。


そういうわけで、僕は「社会の道徳に従う義務はない」と考えますが、他の人たちにも「義務はないけれども、社会の道徳を尊重したほうが、より幸せに生きられるのではないでしょうか」と提案したいと思います。


以上で、僕の意見を説明を終わります。どうか、これを批判してください。

*1:厳密にはこれは遵法責務の正当化の話であって、少なくとも歴史の話だけではないはず。しかし、遵法責務の正当化の話としても、事情は変わらないだろう。