『法の帝国』ダイジェスト

ドゥウォーキンは『法の帝国』しか読んでいないし、その内容もかなり忘れてしまったが、『法の帝国』の議論は、大体、つぎのようなものだったと思う。

  • 「法とは何か?」という問いに対して、明確に外延を定めるような、単純な定義はありえない。なぜなら、この問いに対して、僕たちが持っている経験的な証拠は複雑で発展していく法実践という活動のみであって、その中に「法とは何か?」ということについての観念が含まれており、それも法実践の他の諸側面と同じように複雑で発展していくものだから。
  • しかし、法実践をよく観察し、また他の合理的な観念(それには道徳的な観念も含まれる)を援用して、僕たちの法実践が他の様々な人間の活動とどう違うのかをよく説明し、かつ法実践をより善い方向に導いていくような、現実の法実践の特徴づけを見つけ出すことができる。
  • その特徴とは、法実践全体の一貫性(整合性・インテグリティ)である。
  • 僕たちの現実の法実践の特徴が、法実践全体の一貫性に非常に注意するものであることは、それが現にそのようなものだという点については、あまり説明なく了解できる。問題は、法実践全体の一貫性に注意することが、よりよい方向に法実践を導いていくかどうかである。
  • ここで、ドゥウォーキンは、共同体の擬人化を持ち出す。日本や米国や英国といった共同体を、道徳的な責任をもって振る舞い、振舞うべき道徳的なアクターだと考えよ。もしそうなら、そのアクターは、道徳的な一貫性を保つべきではないのか? 理由もなしに、血液型A型の人とそれ以外の人を差別してはならないのではないか? 許されないはずである。
  • 共同体を道徳的な一貫性を保つべき道徳的アクターとして擬人化するならば、法実践全体の一貫性に注意することは、僕たちの法実践をよりよい方向に導いていくだろう。なぜならば、そのように法実践を発展させることが、共同体がその道徳的責任をはたすやり方の一つであるから。
  • しかし、問題は先送りになってしまった。僕たちは、共同体を道徳的な一貫性を保つべき道徳的アクターとして擬人化するべきだろうか? 擬人化するべきである、というのがドゥウォーキンの回答だ。
  • その理由付けについては、よく覚えていないが、たぶん要点は、そのような擬人化をすることが、僕たちの法に従うべき理由、一言で言えば「遵法責務」を正当化するからだ、というものだと思う。