民主主義の擁護

ある民主主義の擁護論が思いついたので、メモする。これは共和主義の思想に近いだろうと思うが、共和主義がどのようなものなのか僕は良く知らないので、単純に僕が思いついたある擁護論としてメモする。


出発点として、論理性と合理性を区別して、合理性を擁護する必要がある。

僕らは厳密には非論理的な思考であっても、合理的思考というものを認めることができ、非合理なと区別することができ、そして知識を合理的に検証してその確からしさや真偽を判断するという認知活動を行っている。そして、そのような合理性を認めなければ、僕たちの日常的知識も科学的知識も正当化することができない。

帰納はそのような、論理的ではないが、合理的な思考の一例だ*1


つぎに、道徳的な判断も、ある程度、合理的だということを擁護しなくてはならない。これは、パトナムの論法を援用することにする。

まず、科学の知識といえど、「整合的な」や「単純な」という曖昧で、評価的で、規範的な僕らの観念に基づかないで組み立てることはできない。従って、評価的で規範的な観念に頼ることが一概にそれに基づく知識を不合理なものとするならば、科学的知識とて、僕らは不合理なものとしてしなくてはならない。

他方、僕らは、「勇気ある」「誠実な」といった用語を、一定の事実の記述に使うことができるが、それは同時に道徳的な評価である。そして、ある人に対して「誠実な」と評価を下した場合に、「それは、おかしいだろう。だって、彼は約束を良く破るし、陰口をいうし…」というように合理的に批判することができる。


さらに、道徳的判断について合理的に考えうることが擁護されたので(されたとして)、もう少し具体的に考えてみよう。しかし、善とはどのようなものか、と問うのではなく、善い人生(good life)とはどのような人生か考えてみよう。

例えば、ある人の脳が身体の他の部分から切り離され、機械につながれて、その人の経験は全てその機械の生み出した信号によっているというケースを考えてみよう。

これは善い人生ではないと、僕は思う。なぜそう思うかといえば、それはウソの人生だからだ。意図的に騙され、偽られた人生は、たとえそれが大きな快楽を与えてくれるとしても、少なくともそれがウソの人生だという点において、最善の人生とは言いがたい。

以上から、本人が間違った事実認識に基づいて、つまり非合理に自分の人生を評価するような人生は、善い人生ではない。


そして、さらに一歩進んで、人生における自分の人生の評価について、もっと具体的に考えてみよう。

僕は、ピアノを弾けない(または、ほとんど弾けない)。もっとも、ピアノを弾ける人が、リラックスしてピアノを弾いているのは、じつに楽しそうだと思える。しかし、ピアノを弾ける人が実感しているようには、ピアノを行くといったことがどういう体験なのか、その体験がもたらす楽しみがどういったものかのか、僕は十全に知っているわけではない。だから、僕には、ピアノを弾ける人生とピアノを弾けない人生を合理的に比較するのに、少し欠けたところがある。

また、世の中には幾何学の苦手な人と、得意な人がいる。この場合も、幾何学が苦手な人は、幾何学が得意な人生と苦手な人生を比較するのに、少しは欠けたところがあると思う。

このような例は、いくらでも挙げることができる。写真を撮ること、プログラムを書くこと、料理を作ること、演劇をすること… いずれも、それをやることの内に、やってみなければ分からないような体験的な理解や楽しみがあるだろう。

そして、それらを体験的に理解することや、その楽しみの理解を欠いている人生は、いろいろな人生を比較することにおいてもそれぞれの点で少し欠けたところがあり、合理的な判断を損なっているわけで、善い人生(good life)を少し損なっている。


やっと、民主主義の擁護ができるところにたどり着いた。

考えてみよう、政治に参加することは、ピアノが弾けることや、幾何学を解くことと同様に、体験的な理解と楽しみをともなうものである。従って、政治参加をしないことは、善い人生を損なうものだ。政治参加というものの体験的理解と楽しみを知ることが、僕たちの合理的判断に資するという形で、政治参加は善い人生の一部である。

また、より充実した政治参加という観念を考えてみよう。とくに政治参加が善い人生の一部であるならば、何か政治的に重要なポイントで偽なる命題を信じていることは、それ自体、合理的な判断を損なっている。だから、多くの独裁者は、市民が何を求めているかという点で誤っているだろうし、情報を制約することによって市民が合理的に判断したならば何を求めただろうかという判断を自ら制約している点で、より充実した政治参加を果たしていない。

他方、民主主義は、それがより多くの人に政治参加を提供するという点で量的に優れているのみならず、市民がそれぞれ合理的に政治について議論する場を提供することにより、その政治参加に合理性を提供することができ、したがって善い人生の構成要素としてより相応しいものにするという質的な点でも優れている。

以上から、民主主義は道徳的に善い政治体制である。


もっとも、以上の擁護論は、とても危険な側面を持っている。

例えば、子ども*2を育てることは、たぶん善い人生の一部を構成するだろう。結局は子育てを重要な価値を持つものとみなさないとしても、その体験的な理解と楽しみを理解しないことには、そのような判断を合理的に下すことはできないという点で。

では、政治参加を奨励するように、憲法レベルである人生経験を保障することが許されるのならば、子育てをすることを憲法レベルで奨励することも許されるのか? それならば、同性愛者の人生は異性愛者の人生よりも道徳的な善さについて欠けるところがあるという理由で、憲法レベルで異性愛を奨励するということが許されるのか?

これは、僕には受け入れがたい帰結だ。

*1:ベイズ主義者は反対するかもしれない。

*2:ここでは、自分の遺伝的な子孫に限定する。