論理の心理説

論理の心理説のどこがまずいのか良く分からなくなってきた。

「ある推論(導出)が論理的であるということは、僕たちの脳がそれを極めて信頼するように、進化の過程で形成されてきたということである」「論理学とは、人間の精神を研究する一つの方法である」「論理学は心理学の一分野である」。

これらのどこがおかしいのか。


こう考えたらからといって、行動主義をとるように「人間の精神の研究」を狭く解さなければ、別に問題はないように思う。

もちろん、人間の心理の研究においても、論理を使わなければならない。そこには循環がある。しかし、人間の目の構造の医学的・生物学的な研究に、目を使ってはいけないとはいえない。

また、こう考えたからといって、直観主義論理に従わなければならないわけでないだろう。論理についての形而上学的正当化をそもそも逃れている以上、古典論理で考える僕たちの精神が不合理だとかいって論難する根拠はない。


また、論理の心理説の対立説には、それぞれ、その奇妙なところを指摘することができる。

第一に、論理をある抽象的な存在者だと考えるならば、それは奇妙な理解しがたい存在者である。また、僕たちはそれをどのように認識するのだろう? 光が目に差し込むように因果関係に基づいて認識するのだろうか。そうではないだろう。では、因果関係以外のどのような方法によってなのだろうか。

論理をある抽象的な性質や構造だと考えても、基本的に同じ疑問をなげかけることができる。


第二に、論理を公共的な規約だと考える。すると、やはり、僕たちはそれをどのように認識するのか、という問題がある。クワス算の例もあるが、一般にそれが公共的にあるといっただけでは、認識論的・存在論的な問題を解決したことにはならないだろう。

そして、そのメカニズムを説明する場合には、やはり僕たちの心理に言及せざるをえないように思われる。


第三に、論理を公共的な規約だと考え、観察や推論や知識をも公共的なものとして考える。

この立場に立つならば、たしかに、僕たち個々人が論理をどのように認識するのか、という問題は解消する。個々人は論理を認識する必要はない。個々人は観察も推論もしないし、知識も持つことがないのだから。

しかし、個々人は知識など持たない、というはおかしくはないだろうか。

痛みはどうだろう? 公共的に考えるならば、僕たちは他人の痛そうな表情や身体の運動などに基づいて、自分自身の「痛み」を理解することになる。しかし、本当にそれだけだろうか? 僕たちはたしかに主観的なあの「痛さのクオリア」について知識を持っているのではないか。

知識を純粋に公共的な身分のものとしてとらえることには、どこかおかしなところがある。これは、推論や論理についても、言えるのではないだろうか。


第四に、論理を客観的な物理領域そのもの(または「自然」)に内在的なものだと考える。

つまり、僕たちは自然法則を発見するように、論理法則を発見するというわけだ。しかし、そうすると様相論理はどうなるのだろう? 僕たちは、可能世界を経験的に発見するのか? それは「可能世界」の定義に反している。では、いったいどうやって、経験的にではなく発見するのか。

話が少し広がるが、仮に論理を物理領域そのものに帰するとしても、厳密には論理ではない帰納は、どうするのだろう。帰納という合理性を、人間の心理以外の自然に還元できるのか? それは、かなり想像もつかない話だ。

これを逃れる道はベイズ主義にあるかもしれないが、ベイズ主義には良く知られた「事前確率をどこからもってくるのか?」という問題がある。帰納によって知識(信念)を正当化する文脈で、事前確率を人間の心理以外のどこかに解消する以外に、見込みのある方法は僕には思いつかない。