デカルト的懐疑

思考実験

(思考実験1)

僕が信じていることは、ほとんど間違っているかもしれない。本当の世界は、食パンがその耳を羽ばたかせて、太陽の左斜め前を素因数分解している、そういう世界かもしれない。

(思考実験2:水槽の脳)

巨大なプールがあって、その中には脳が浮いている。それは、僕たちの脳だ。その脳はプールの中央にある巨大な機械に繋がれている。そして、僕たち(の脳)はその機械から電子信号を受け、ウソの経験を与えられ、ウソの世界を信じこまされ続けている。

(思考実験3:5分前の天地創造)

この世界は、全知全能なる神が5分前に創造した。5分前以前の僕たちの記憶も、そっくりそのまま。

デイヴィドソン、パトナム、ローティ

全ての信念が真である必要はないが、ほとんどの信念は真である必要がある、とデイヴィドソンはいう。

(客観的な世界についての)全知の解釈者を考えてみよ。彼女はある人を観察して、被解釈者の発話を聞き、被解釈者が何を信じているかを割り出そうとする。もし被解釈者の信念が全てでたらめであれば、解釈者は被解釈者が何を言っているか全く理解できないだろう。そして、被解釈者が信念を持っていないという結論を出すだろう。とデイヴィドソンはいう。

しかし、では、解釈者の客観的世界についての信念が全て間違っており、被解釈者も全く同じように間違っている場合はどうか? 解釈者は、被解釈者が信念をみごと割り出すかもしれない。めでたく、コミュニケーションは成立する。

デイヴィドソンは、それはありえない想定だ、というだろう。なぜなら、解釈者が被解釈者の信念を割り出すためには、客観的世界についての二人の観察が一致しなければならないからだ*1

しかし、それは本当に客観的世界でなくてはならないのか。例えば、デカルトの悪魔が二人を同じように騙していた場合はどうか? 水槽に浮かぶ二つの脳が、同じ機械につながれて、同じような幻覚を見せていた場合はどうか?

そうすると、デイヴィドソンの議論は、デカルト的な全面的懐疑に晒されるのではないか? いや、そうではないのだろう。デイヴィドソンの考えでは、「客観的」や「真」は根源的解釈のなかでのみいみを持つような語なのだから。彼はデカルト的懐疑を理解可能にするような「真」の概念を持ち合わせていない、ということなのかもしれない。


デカルト的懐疑の論駁については、パトナムの「水槽の脳」の思考実験に基づく議論が、僕の知っている最も鋭い(もしかしたら説得力のある唯一の)議論だと思う。「水槽の脳」の思考実験(デカルト的懐疑)は、「指示の魔術説」を前提しなければ、理解できない。「指示の魔術説」はとれない。よって、「水槽の脳」の思考実験は理解できない。


しかし、僕はむしろこう言いたい。「知識が増えることをなぜ恐れるのか?」

仮に、僕たちが何らかの理由でデカルト的懐疑が正しいことを知ったとしても、僕たちは、それまでの僕たちの意味で「真なる」信念の真理条件を挙げることができるかもしれない。それは、悪魔の意図との対応だとか、機械の計算状態との対応だとか。そうすると、そのようなことを知ったところで、僕の信念の全体に及ぼす影響はほとんどないのではないか。

むしろ、「今までの僕たちの意味での『真である』は、機械の計算状態との対応を意味する」といったような知識が付け加わるだけではないか。僕たちは、一つ賢くなる。なぜ、それを恐れる必要があるのか。

このような意味で「知識が増える」ということが、理解しがたいだろうか? しかし、それならば、それはそもそもデカルト的懐疑の思考実験が理解しがたいものだったからではないだろうか。


もしかしたら、どんな懐疑主義者も、「僕たちの信念が全面的に間違っている」という懐疑を、細部を十分に具体化できるような形で提出することはできないのかもしれない。

それは、その細部が決して理解できない、漠然とは理解できそうな気になるファンタジーにしかならない。どの思考実験も、「形而上学実在論」も、その種のファンタジーに過ぎない。

結局、ローティの言っていることが正しいように思う。「僕たちの信念が全面的に間違っている」という懐疑を十分具体的に理解できないのは、それ自体に何か形而上学的な理由があるのではなく、たんにそれが僕たちがものを考えたり、理解することのありかたの現実だからだろう。


デカルト的懐疑の恐ろしさ?

デカルト的懐疑が、デカルトともに始まった、というのはたぶん正しくない。荘周は、紀元前に「知らず、周の夢に胡蝶なるか、胡蝶の夢に周なるかを」という文を書いた。


もっとも、荘氏にとっては、これは美しく、楽しい夢だった。

他方、近代の哲学者の多くにとっては、デカルト的懐疑は、重大で、恐ろしいものであるかのように考えたのではないだろうか。この態度は、17世紀、デカルトの時代に始まったのかもしれない。


ほとんどのセンスデータ説論者は、おそらく、次のような信念と願望を共有していた。

(1)「知識の確実な基礎」「確実な知識」というものがあると考えていた。彼らは、数学をその例とみなしていた。これはプラトンが共有していた西洋哲学の長い伝統だに基づく。

(2)自然科学を、「知識の確実な基礎」に基づいたものにすることを望んでいた。これは、17世紀前後から始まった自然科学の飛躍的な発展に刺激されたもので、当時以前の人々には、それほどの強さで共有することはほとんどありえなかったものだ。

(3)知識を得るこや合理的に考えることといった人間の能力せある「理性」が、人間の尊厳の源・中核であると考えていた。

これらの信念と願望が、デカルト的懐疑をおどろおどろしいものに見せていたのではないだろうか。


しかし、現代の僕たちにとって、(1)〜(3)の信念と願望は、それほど単純なものではなくなった。

(1)は、非ユークリッド幾何学の確立、形式主義的な態度の普及、ゲーデル不完全性定理、信念や真理の全体論などによって、少なくとも、デカルト達が考えていたようには単純なものではなくなった。

(2)は、相対性理論の需要によるニュートン物理学の(部分的な?)失墜、論理実証主義者の失敗、ポパー反証可能性の議論による仮説の可謬性の強調、クーン達による通約不能性の議論、ファイアアーベントによる科学仮説の恣意性の議論などによって、ありえないような話だと考えられるようになった。

(3)は、リベラルな正義観、老人や重度の精神障害者の福祉のコストを社会が引き受けている現実、文化の多様性の尊重という現実的な政治的・道徳的な態度の変化、進化論が提供する視点、フロイト精神分析やその他の心理学の暴露する人間の非合理性などによって、揺らいでいる。

*1:例えば、ウサギが草むらから飛び出す。それを見た被解釈者は「ガヴァカイ」と言う。解釈者は「ガヴァカイ」とは「ウサギだ」とか「ウサギが飛び出した」とか何かそれに類することを意味すると考える。このようにして、解釈者はデータを集めていき、ついには被解釈者の文法を理解し、その言語を理解し、その信念を理解する。