自由意志

僕は、「経験」を客観的(ないし間主観的)なものだと考えてみることにした。少しフライングして言えば、他者の「クオリア」でさえ、客観的だと思う。大雑把に言えば、僕たちは、他者の(身体的な)痛みや、恋や嫉妬という感情を観察できる。電流計を通して、電流を観察できるのと同じように。また、他者の意識も観察できる。

だから、「経験」や「クオリア」や痛みや感情や意識は、科学理論のデータになる。それらが科学理論のデータになるから、神経系の生化学的反応に還元(サールのいう「因果的な還元」)できることに、何の問題もない。そして、現在の科学研究によって、「経験」や「クオリア」や痛みや感情や意識… つまりが神経系の生化学的反応に還元できることが次々と示されていて、僕たちが大雑把に心として把握しているもののほぼ全てが神経系の生化学的反応に還元可能だろうという予測は、かなり信頼できると思う*1

そうすると、物理因果から影響されず、しかし物理的因果を引き起こす神秘的な「自由意志」の残る余地はない。


また、よくよく考えてみれば道徳的な問題としても、神秘的な「自由意志」を持ち出さなくとも、僕たちは現在の僕らが持っている道徳慣習を説明できるし、正当化できるし、将来にわたっても特に問題にならないのではないかと思う。


「自由意志」という奇妙で神秘的な存在者にかえて、たんに「個人の意思決定の尊重」という理念で十分なのではないだろうか?

そして、なぜ僕たちが個人の意思決定を尊重するべきかといえば、それはそのほうが幸せだからだ。これを単純な功利主義的にとらえるべきか良く分からないが、僕たちは、自分の意思決定が尊重されないことは、けっこう屈辱的な苦痛になる。だから、個人の意思決定を尊重すべきだ。

もっとも、自分の意思決定が尊重されなくとも苦痛に感じない人もいるかもしれない。歴史を振り返れば、少なくとも現在ほどには屈辱的に感じないという人がほとんどの社会が多かったのかもしれない。自分の意見を持ちなどしない、あるいはこだわらない、無視されても怒りを感じない、そういう人々が多数の社会もあったかもしれない。さらに、現在の道徳慣習や教育や教養を放棄して、大多数の人がそうであるような社会を、これから作ることができるかもしれない。

しかし、そういう社会は、現在の社会より望ましくない社会だと思う。それは、その社会が個人の意思決定を尊重していないという理由からではなく、自分の意見を持ちなどしない、あるいはこだわらない、無視されても怒りを感じないという人々が大多数を占める社会では、人々がそれぞれ情報を集めてそれぞれ考え、それを持ち寄って議論して、さらに自分で考えるという広い意味での民主主義が維持できないからだ。また、民主制も、科学の発展もが、そのような広い意味での民主主義を基礎としている。そして、民主制や科学の発展は、僕たちの生活の福利の向上にきわめて有効なものだと思う。


したがって、個人の意思決定を尊重すべきであり、その結論にいたるのに「自由意志」の仮定は必要ない。


これを刑法の「責任」の議論に結びつけて考えてみると、(1)心身喪失者を罰しない、(2)刑事責任年齢以下の者を罰しない、(3)故意(及び過失)のない者を罰しないという三つの法定の責任要素のうち、(3)については「(ある特定の)犯罪をしない」という消極的な意思決定を尊重する、ということで「個人の意思決定の尊重」から導くことができると思う。(1)と(2)は、「個人の意思決定の尊重」だけでは説明できないだろう。しかし、これは功利主義(効果がない。効果と苦痛がつりあわない。より効率的な方法がある)で説明できるように思う。

うーん… やっぱ、危険か???

*1:志向性の問題は残るが… それとも大胆不敵にも、心の志向性も僕らが客観的に観察できるデータだとみなすべきか。