創造説

知的生命体が偶然をもとに発生したとは考えにくいという創造説の論拠の一つに従えば、知的生命体の創造の系列は無限後退か、循環に陥る。そして、どちらも知的生命体が偶然をもとに発生した以上に考えにくく、結局は自然の斉一性か、物理的領域の因果的閉包性を棄却せざるを得ないようになるように思われる。


しかし、このことは、創造説のトドメの一撃とはならないのではないだろうか。

第一に、自然の斉一性と物理的領域の因果的閉包性のどちらか*1を僕たちが棄却するのが、経験的証拠に鑑みて合理的だ、ということもありえないわけではないだろうから。

自然の斉一性は自然科学の前提であるかもしれないが、合理的な見地からそれが二律背反に導くのならば、自然科学を捨てることや、自然科学をテレビや飛行機を作ることには適した技芸として扱うことさえ、選択肢の一つであっていけない理由はないだろう。

第二、創造説は、「およそ原因なく知的生命体が発生しないというのではなく、地球誕生以来の時間(又は宇宙誕生以来の時間)では、圧倒的に足りないということを述べている」、あるいは「およそ原因なく知的生命体が発生しないというのではなく、この宇宙の宇宙定項の値では無理だ、ということを述べている」といって、上記の思弁的反駁をかわす事も不可能ではないだろう。

もっとも、どちらもあまりに高い掛金を賭けることになっているとは思うし、今の時点ではそれが合理的な選択であるようには僕には思えないが、そちらのほうも合理的な選択だという人を、この思弁に基づいて説得することは難しいだろう。


むしろ、創造説に対して注意しなければならないことは、「空飛ぶスパゲッティ・モンスター」の例が示しているように、たんに誰かが僕たちを創造しただけでは、僕たちがその誰を信仰する理由にはならないのではないか、ということだと思う。

このことは、多神教の伝統においては自明なことだ。

また、ユダヤ教の伝統においてさえ、創造神への信仰が求められる理由は、それが天地や人類を創造したということだけではなく、創造神自身が他の信仰を廃して自分を信仰することを要求したこと、ユダヤ民族の祖先がそれに応じて誓約をしたことに求められている。

キリスト教の伝統でも、創造神が創造者だからという理由で、その信仰が合理化されるわけではない。福音とそれを証し立てるイエスの復活がなくてはならない。

*1:二者択一なら、物理的領域の因果的閉包性のほうが棄却されて欲しいな。