パトナムとローティ

「対象なしの客観性」の立場のパトナムと、ローティは、かなり近いといって良いと思う。

しかし、パトナムは、ローティの言い回し、例示、文化帝国主義を決して受け入れることはできないだろう。パトナムは、ユダヤ人だから。


パトナムにとっては、モーセもまたローティのいう「ヒーロー」の一人なのであるし、自分が所属する西洋文明の「ヒーロー」としてプラトンは挙げるくせにモーセやイエスを挙げないローティはおそろしく恣意的に見えることだろう。

また、ユダヤ人であるパトナムは、いまのキリスト教的伝統が、いわゆるユダヤ的(ヘブライ的)伝統とギリシア的伝統が緊張関係を保ちながら融合して、成り立っていること、とくにその伝統にローティが無視しているように思えるユダヤ的伝統が流れ込んでいることを、軽視することはないだろう。


ローティはまるで、自分の属している伝統が、プラトンから一子相伝で繋がれてきた一本の糸であるかのように語るが(またはそう受け止められかねない言い方をするが)、それは間違ってる。ローティの属している伝統も、激しい内部的緊張をはらんだパッチワークなのだ。

そして、その内部的緊張のかなりの部分は、歴史のある時点で、いくつのかの伝統が融合したり、対話したり、部分的に取り込んだりした結果なのだ。

ローティは、「異なる『伝統』に属する人々の間の公共的議論の不可能性」を暗に示唆しているが、それは経験(ないしは歴史)に反している。ローティの属する「西洋文明/ヨーロッパ文明/キリスト教文明」も、いくつもの伝統が対話し、融合して生まれてきたものなのだ。