『ラムネ』『存在論抜きの倫理』


『ラムネ』第5話で,次のようなやり取りがあった。

「新しい星座,発見」
「どこどこ?」
「あの星とあの星をこう結ぶと,名づけてカツカレー座!」


新しい星座というのは,発見しうるものなのだろうか? ある星座,例えば天秤座や,南十字星や,ここでいう「カツカレー座」が存在するか,しないかは,僕たちの規約の問題なのではないだろうか? 間違いなく,規約の問題ではあるだろう。だから,「新しい星座,発見」というのは奇妙な発言なのである。「われわれは,新しい星座を定めよう」と発言するべきだろう。

他方で,「星座を発見した」と発言することが,全く奇妙でない文脈がありえる。例えば,数人の子どもが星空の下,懐中電灯で本を確認し,「あっちじゃないか」「あれじゃないのか」と言いながら,カシオペア座を発見したり,北斗七星を発見したりする場合である。

そういうわけで,ある星座が存在するかどうかは確かに規約の問題だが,一旦それが存在するとの規約を受け入れれば,私たちはその星座を発見することができる。その上,その星座がどのように変化するかとか,いつごろ消滅してしまうかとか,(規約合意以前の)いつから存在するかとかいうことでさえ話すことができる*1



星座は,パトナムが紹介するところの「メレオロジー的和」の例だ。

レオロジー的和というものが「本当に存在する」のかという問いは,ばかげた問いである。そういうものが存在すると言うことに決めるかどうかは,文字どおり規約の問題なのである。


ヒラリー・パトナム『存在論抜きの倫理 (叢書・ウニベルシタス)』51項

規約には,まったく申し分のない語義がある。デイヴィド・ルイスがいまから何十年も前に,まさに『規約(Convention)』という題名の本において示したものがそれである。その語義においては,規約とは,たんにある調整問題に対する解決法のことである。


前掲書52項

もっとも,この文は,「メレオロジー的和」というもの一般を存在者として認めるかという形而上学的,あるいは論理学的問題に対して,それは規約の問題であるという回答として書かれている。

そして,メレオロジー的和一般が存在すると規約する以上は,個々のメレオロジー的和である天秤座や南十字星や「カツカレー座」は当然存在することになり,天秤座は存在するが「カツカレー座」は存在しないという規約は選択できないのではないかと思う。だから,上で書いたことを補強するためにこの文を引用するのは我田引水の誹りを免れない(でも,まぁいいや)。

*1:あまりに規約・基準が曖昧すぎて困難なことのほうが多いかもしれないが,それでも可能な場合もありえるだろう。数千年前にできた新星が星座に組みこまれている場合など。