『道徳の哲学者たち』

道徳の哲学者たち―倫理学入門

道徳の哲学者たち―倫理学入門


イギリスの倫理学者が書いた倫理学の教科書。

ソフィストについて少し触れ,プラトンアリストテレス,ヒューム,カント,ヘーゲルニーチェという著名な哲学者の倫理学説を紹介する前半と,功利主義,権利基底型倫理学,徳倫理学実在論/反実在論といった現代英米倫理学の見取り図を紹介する後半で構成され,どちらも紹介とともに著者(リチャード・ノーマン)の批判的な検討がなされている。

ノーマンはヘーゲル(とマルクス)に近い立場に立っており,書かれている内容にその著者の立場が色濃く反映しているが,そのことを著者自身がはっきり自覚しており,著者の意見である部分はそのことを読者に注意しながら書かれているので,不快感や危険な感じはない。

でも,やっぱり,教科書というからには,もうすこし中立的な立場で有力説を紹介していくという書き方もできたのではないだろうかと思う。

ノーマンの立場は,「社会的・生物的存在者である人間にはいろいろな必要社会関係があり,多様なそれら*1を維持・発展させることが人間の幸福であり,その幸福を実現することが倫理的に正しいことで,また何が重要な必要や社会関係であるかは,経験から合理的に判断することが可能だ」というものだと思う。

ノーマンの立場はかなり特殊な少数説に立つものだけど,今読んでるパトナム*2の著作ともそれなりに近いところもあって,僕にとっては受け入れられないようなものではない。

ただ,この立場は「如何に生きるべきか?」,もっと言えば「私は如何に生きるべきか?」という倫理的な問いの答えにはなりえるけど,また正当な倫理的賞賛の裏づけにはなりえるとしても,正当な倫理的非難を裏付ける力はかなり低いのではないかと思う。

もちろん,倫理的非難の正当化,つまり「あいつは道徳的に悪いやつだ」「悪人だ」といった主張や言説を正当化するような正しい哲学理論を求めることは,危険なことかもしれないし,お上品な人たちに眉を顰められかねない。

しかし,本当に倫理的非難の正当化について,合理的な討論の可能性を断念していいものだろうか?

僕は,犯罪者に対する処罰感情や,人種的・民族的な意識が高まっている現在だからこそ,法的サンクションを立法者の決断や民族の確信だけに基づかせるのではなく,倫理的非難の普遍的な正当化を目指した合理的な討論や推論の可能性を擁護すべきではないかと思う。

*1:「必要」や「社会関係」が多様であることがポイント。つまり,これだけを満たせばO.K.という唯一つの何かがあるわけではない,とライカンは考えている。

*2:現時点のマイ・フェイバリット哲学者。